宮沢賢治の短編集「注文の多い料理店」。
初めて読んだのは、もう30年以上も前の話で、その時は、特に、何とも思わなかった。
久しぶりに、読んでみようと、昔、買ったものは、もう手元に無いので、また、新しく、購入。
この角川文庫を購入したのですが、出版当時の挿絵なども収録されていて、なかなか、良い。
最初に収録されているのが「どんぐりと山猫」という短編。
昔、何気なく読んだものが、今、読み返してみると、色々と、気がつくこともあります。
そもそも、その文章、内容からして、童話といっても、年齢の低い子供が読んで、理解出来るような感じのものではない印象ですね。
やはり、ある程度の年齢になり、他にも、多くの本を読んでから、ようやく、面白く読むことが出来るといった感じ。
さて、物語ですが、簡単に言えば、主人公の「一郎」という少年のところに、「裁判に出席して欲しい」という葉書が届くところから始まる。
一郎は、その差出人である山猫を探して、山に入る。
そして、山猫に出会い、裁判が始まる。
裁判をされるのは、たくさんの「どんぐり」たち。
裁判の内容は、どの「どんぐり」が、一番、偉いのか、と、言うこと。
裁判は、何日も続いて、決着がつかない。
そこで、一郎が、あるアイデアを山猫に伝え、裁判は、無事に解決。
一郎は、お礼を貰って、家に帰る。
そして、二度と、裁判の葉書が来ることは無かった。
さて、この「どんぐり」たちの裁判。
裁判で「どんぐり」たちが、何を争っているのかと言えば「この中で、誰が、一番、偉いのか」ということ。
しかし、「どんぐり」と言えば、「ドングリの背比べ」という言葉があるように、「どれを取っても、大差は無い」ということの代名詞のようなもので、恐らく、この裁判は、それを掛けているのでしょう。
そして、一郎は、その裁判を解決する手段として「一番、馬鹿で、滅茶苦茶で、まるで、なっていない者が、一番、偉い」という判断を、山猫に伝える。
これは、宗教的知識が無い人には、なかなか、分かりづらいものではないでしょうかね。
「一見、最も、劣っていると見える者が、実は、一番、偉い」
これは、宗教の話の中では、よく見かける話でしょう。
結局、人間、みんな、大差は無い。
そして、多少の差で、醜い対立をしても、意味がない。
そして、自ら、他者の下に、へりくだることが出来る人こと、本当に、偉いということ。
と、言うのが、個人的な解釈ですが、どうでしょう。
その前後にある寓話的なエピソードまでは、何か、意味があるのか、無いのか。
その辺りのところまでは、推測の範囲外ですが。