さて、昨日、訪れた百間川の復元された遺跡のある場所。

その場所の、百間川を挟んだ南に、戦国時代の城「明禅寺城」がありました。

それが、こちら。

 

 

恐らく、このこんもりと盛り上がった丘の上が、「明禅寺山城」があった場所です。

 

戦国時代、備前国の支配を巡って、当時、沼城に本拠地を置いていた宇喜多直家と、備中国松山城を本拠地としていた三村元親の間で、大きな合戦がありました。

 

明禅寺城は、永禄9年(1566)に、宇喜多直家によって築造されたと言われています。

しかし、翌年、備前国への侵出を狙う、備中国の三村元親によって、奪われます。

 

この「明禅寺」という名前は、平安時代に、この山に、明禅寺という密教寺院があったことが由来だそうですね。この明禅寺は、その後、廃寺となったということ。

 

城は、山頂部分に主郭があり、南北に郭があったそうです。

しかし、現在、城の遺構は、よく分からないということのよう。

郭の跡と思われる、平地が、いくつか、確認出来るということのよう。

 

さて、この明禅寺を舞台にして「明禅寺合戦」が起こります。

 

永禄8年(1565)、備中国松山城に拠点を置く三村家親は、美作国に侵攻し、後藤勝元の三星城を攻めますが、舅である宇喜多直家の援軍もあり、城を落とすことが出来ず、撤退します。

永禄9年(1566)、再び、美作国への侵攻を目指した三村家親でしたが、宇喜多直家は、刺客を送って、三村家親を暗殺。嫡男だった三村元親が、後を継ぎます。

 

同年、宇喜多直家は、沢田に明禅寺城を築城。

しかし、翌、永禄10年(1567)7月、三村元親が、この明禅寺城を落とします。

 

宇喜多直家は、これに対して、岡山城の金光氏、中島城の中島氏、舟山城の須々木氏を寝返らせ、明禅寺城を孤立させ、降伏を迫りますが、明禅寺城の守備隊は、三村元親に援軍を要請。

三村元親は、宇喜多直家と雌雄を決するため、一万を越える軍勢と共に、備中国を出陣し、明禅寺の救援に乗り出します。

 

一方、宇喜多直家は、五千余りの軍勢と共に、明禅寺城の攻略のため、沼城を出陣します。

まず、明禅寺城を落とし、救援に来る三村元親の軍勢を打ち破る戦略です。

 

三村元親は、辛川表で軍議を開き、軍を、庄元祐、石川久智の率いる別働隊、二つと、自身の率いる本隊の三つに分けます。

庄元祐の軍は、明禅寺城の救援。石川久智の軍は、明禅寺城を攻める宇喜多軍の背後を突き、三村元親の本隊は、宇喜多直家の本拠地、沼城を、直接、攻撃する戦略です。

 

しかし、猛攻によって、いち早く、明禅寺城を落とした宇喜多軍は、まず、庄元祐の軍を破り、更に、石川久智の軍を破ります。

三村元親の本隊は、これに驚き、急遽、方針を変更し、宇喜多軍に攻撃を開始しますが、敗北。

 

この「明禅寺合戦」で、大敗北を喫した三村元親は、備前国への侵出を諦め、逆に、宇喜多直家は、備前国西部へ、侵出することになります。

 

さて、この明禅寺城の、ほぼ真北に、「龍ノ口城」がありました。

この龍ノ口城は、備前国西部を支配していた松田氏の家臣、穝所元常の居城でしたが、この龍ノ口城を巡って、宇喜多直家は、度々、攻撃をしたようですが、攻略は難航し、永禄4年(1561)、謀略によって落としたと言われているようです。

 

宇喜多直家が、沼城から、備前国西部、今の岡山市街地の方面に侵出するには、龍ノ口城は、落とさなければならない城で、明禅寺城もまた、拠点の一つになる場所です。

 

この「明禅寺城」「龍ノ口城」を巡る合戦は、度々、起こったのでしょうが、上の経緯は、江戸時代の軍記物「備前軍記」によるもので、恐らく、合戦が、上のような経緯で行われたとは思えない。

いかにも、作家が想像したような、絵に描いたような作戦が、実戦で、実現をするとは思えない。

やはり、合戦の様相は、江戸時代に創造されたものでしょう。