さて、尊皇攘夷過激派が、下関で外国船を砲撃。
長州藩と、欧米列強との対立、緊張は、一気に、高まります。
以下、この本から。
文久3年(1863)5月10日、下関(赤間関)で、長洲藩は、外国船を砲撃する。「攘夷の決行」である。
実際、長州藩は、4月2日には、外国船を一方的に打ち払うことを命じる布告を出しているそうですね。実は、周布政之助も、桂小五郎も、これを了承していた。
しかし、周布も、桂も、まさか、本当に、過激派が砲撃をしてしまうとは思っていなかったようです。桂は、この外国船への砲撃を聞き、失望の手紙を、村田蔵六に送っている。
6月2日、アメリカ軍艦ワイオミングが、長州藩の軍艦を砲撃し、一隻を撃沈、一隻を大破させる。
6月5日、フランス軍艦の2隻が、下関を砲撃。しかし、長州藩は、すぐに、砲台を復旧し、下関を海上封鎖。
6月10日、江戸で、緒方洪庵が亡くなる。村田蔵六の他、適塾の卒業生たちが集まり、福沢諭吉の発言が、村田蔵六を激怒させたと言われている。
その時の様子は「福翁自伝」に記され、有名ですよね。
福沢諭吉は、下関で長州藩が外国船を攻撃したことに対して「おかしな奴らが、呆れかえったことだ」と、蔵六に言ったよう。それに対して、蔵六が激怒をし、「長州では国是が決まっている。あんな奴らに勝手なことをされて、黙っていられるか。あんな奴らは、打ち払って当然だ。防長の人間は、全てが死んだとしても、どこまでも戦うんだ」と福沢諭吉に反論。福沢諭吉は、蔵六の剣幕に驚き、他の仲間たちと、蔵六の行く末の心配をしたということ。
村田蔵六は、なぜ、このようなことを言ったのでしょう。
やはり、故郷、長州への思いと、欧米列強に対して、何か、嫌悪感を持っていたということなのでしょうかね。
この頃、蔵六が、長州藩に送った書状の中では、「幕府の柴田貞太郎という外国奉行が、江戸を戦火に巻き込まないため、長州藩を犠牲にして、外国に長州藩を攻めさせようと考えている。全く、幕府には、長州藩を助けるつもりはない」と激怒をしているようです。
確か、松浦玲「勝海舟」によれば、この四カ国連合艦隊の下関の攻撃に対して、幕府は、攻撃を中止するよう、勝海舟を派遣して、交渉しているんですよね。
しかし、勝海舟の交渉は、上手く行かず、しばらく、攻撃を延期させるに留まった。
文久3年(1863)6月6日、長州藩は、度重なる、行状で、謹慎処分を科していた高杉晋作を、山口の政治堂の藩主の元に呼び出す。
外国の攻撃に備え、馬関の防衛をするには、どうすれば良いか、質問された高杉は、新しい軍隊の創設の構想を話す。「奇兵隊」である。
この「奇兵隊」の「奇」とは、藩の正規兵の「正」に対しての「奇」というもの。
この奇兵隊は、身分を問わず、その力量によって有志を集め、兵士にするというもの。
高杉晋作は、「奇兵隊」を結成。この奇兵隊結成に刺激を受け、長州藩では「諸隊」が、次々と結成されることになる。
ちなみに、この「奇兵隊」の中心となったのは、「光明寺党」と呼ばれる人たちだったそうですね。彼らは、攘夷戦争のために京都から戻った尊皇攘夷過激派の面々で、入江九一、久坂玄瑞、山県有朋、赤根武人、時山直八ら、松下村塾門下生や、他藩の脱藩浪士ら、総奉行の指揮下に入っていない尊皇攘夷派の有志たち。
ちなみに、5月10日、下関で外国船を砲撃したのも、光明寺党の人たちでした。
京都では、尊皇攘夷過激派の暴発に苦慮していた孝明天皇を中心に、長州藩と過激派公卿を廃除する方針が決まる。
そして、文久3年(1863)8月18日、京都で、「八月十八日の政変」が起る。
薩摩藩、会津藩、孝明天皇の意を受けた中川宮らが、御所から、過激派公卿と、尊皇攘夷過激派を一掃する。
この頃、奇兵隊が、長州藩内で、政治的発言力を強くし、長州藩世子、毛利定広の上洛が決定。
周布政之助や、10月3日に、帰藩していた桂小五郎は、尊皇攘夷過激派の動勢を抑えられず、苦慮していた。
9月20日、蔵六は、藩から、「国許に住むように」と命令を受け、妻とともに、江戸から長州藩に向かいます。
11月、蔵六は、妻と共に、長州に到着。実は、蔵六は、正式に幕府の洋書調所に辞表を出していた訳ではなく、休暇ということで、長州に戻ったそう。長州は、その休暇の更なる延期を、幕府に申し出ているそうです。
11月26日、蔵六は、撫育方御用掛の兼任を命じられる。
元治元年(1864)2月1日、長州藩は、蔵六の病気が治らないことを理由に、幕府への出府拒否を伝える。蔵六は、山口の白石にある普門寺で、オランダ語の私塾を開設。
この頃、蔵六は、兵学校教授役、博習堂砲兵塾役などを務め、台場の築造なども行い、長州藩で、軍事の実務に専念。
ちなみに、この頃、藩の政庁は山口にあり、文久3年11月26日には、山口講習堂を山口明倫館と改称し、文学寮と兵学寮を組織する。
蔵六は、ここで、兵学校の教授を務める。
元治元年(1864)4月、京都留守居役となっていた桂小五郎は、長州藩の挙兵上洛を、必死で、制止し続けていた。
しかし、6月5日、京都で、「池田屋事件」が勃発。幕府の新選組が、京都三条の池田屋に集まっていた尊皇攘夷過激派の浪士たちを襲撃。
この池田屋事件に触発された長州藩は、ついに、挙兵上洛を決行。
7月19日、京都御所の内外で、長州軍が、薩摩藩、会津藩らの軍勢と交戦。「禁門の変」です。
結果、長州軍は、敗北し、久坂玄瑞ら、尊皇攘夷過激派の多くが、命を落とす。
朝廷は、御所に向かって発砲した罪により、長州藩主父子の官位を剥奪し、幕府に長州藩追討の命令を下す。
8月5日、四カ国連合艦隊の17隻が、下関へ砲撃を開始。戦闘は、7日まで続き、長州軍は、敗北する。
長州藩は、列強との講和交渉のために、再び、謹慎中だった高杉晋作を指名。
8月8日、第一回目の交渉の後、尊皇攘夷過激派によって狙われたため、一時、高杉は、身を隠す。
8月16日、第三回目の交渉では、再び、高杉晋作が指名され、交渉をする。この時、村田蔵六も、同行していた。
高杉は「外国船への砲撃は、幕府の命令によるものなので、賠償金は、幕府に請求しろ」と譲らず、外国も、それを了承することになる。
講和成立後、村田蔵六は、下関の外人応接所で、引き続き、勤務をすることに。
8月29日、蔵六は、政務座役御用、軍制引除取計を任じられる。
8月21日、幕府は、前尾張藩主、徳川慶勝を征長総督に任命。
長州藩の存亡の危機に対して、政権を主導して来た周布政之助は、責任を取って、自害。
代わって、椋梨藤太を中心とする一派が、政権に就き、幕府に、徹底恭順を決める。
禁門の変の責任を取り、三家老を自害させ、四参謀を斬首。
安政の軍制改革を担当した山田亦助らを野山獄に投獄。「八月十八日の政変」で、長州に逃れていた三条実美らを筑前に送り、幕府に降伏する。
この椋梨藤太らの幕府への対処に不満を持った高杉晋作らは、彼らを「俗論派」、自らを「正義派」と呼び、対立姿勢を強める。
10月21日、椋梨は、高杉晋作らを罷免し、諸隊の解散命令を出す。
しかし、12月15日、ついに、高杉晋作は、石川小五郎の遊撃隊、伊藤博文の力士隊ら、わずかな仲間と共に、赤間関功山寺で挙兵。
高杉晋作の快進撃は、奇兵隊を始め、他の諸隊の合流を受け、「俗論派」の藩兵を、次々と撃破。元治2年(1865)1月16日、藩兵の本陣、赤村の正岸寺を落とす。
この戦いの中で、藩では、「正義派」でも「俗論派」でもない人たちによって「鎮静会議員」というものが結成されたそうです。彼らは、「正義派」の主張を受け入れ、「正義派」と中間派による政権を、藩主に求め、「俗論派」は、政権から罷免されることに。
高杉晋作のクーデターは、成功し、長州藩の藩論は、「武備恭順」となる。
この高杉晋作のクーデターの少し前から、村田蔵六は、博習堂用掛と、赤間関応接掛に任じられ、山口と赤間関、藩庁が戻された萩とを、行き来しながら、多忙を極めていた。
四カ国連合艦隊に敗れ、講和が結ばれた後、下関は、事実上の開港地となり、外国との貿易で、賑わうようになる。
高杉晋作のクーデターの後、藩の政治は、山田宇右衛門や、周布政之助の甥、杉孫七郎らが中心となっていた。
彼らは、藩庁の山口への再移転と、軍制改革を目指す。
村田蔵六は、禁門の変の後、出石に潜伏していた桂小五郎と連絡を取り合い、長州藩の内情を伝えていた。この頃、桂小五郎の行方を知っていたのは蔵六だけで、高杉もまた、蔵六に、桂の行方を尋ねている。そして、蔵六は、小五郎に、帰国を促す。
4月26日、桂小五郎は、赤間関に入る。
閏5月2日、将軍、徳川家茂が、大坂城に入る。
これは、第二次長州征伐を見据えてのもの。
5月27日、桂小五郎は、用談役心得、政治堂用掛に任命される。ついに、桂小五郎は、長州藩の政治に中枢に参加。
同日、村田蔵六は、桂小五郎の推挙で、「御軍政一途御用引除所勤」を命じられる。
藩の政治を主導することになった桂小五郎、山田宇右衛門らによって、村田蔵六は、長州藩の軍制改革の中心人物に抜擢されることになる。
長州藩では、奇兵隊を始めとする諸隊への統制を強める。
諸隊の、自由裁量は縮小され、長州藩の軍事力として、管理をしようというもの。
村田蔵六の方針で、諸隊は、長州藩の正規軍に組み込まれることになる。
蔵六は、更に、長州藩の、これまでの部隊編成を解体。藩士に、石高に応じて従卒を出させ、それを銃隊として編成。
長州藩の精鋭部隊とするべく、山口に、この銃隊を集め、訓練と教育を実施。
銃器、弾薬を統一の規格とし、全てを、藩が用意することを決める。
蔵六は、歩兵、砲兵、騎兵の修業規則を定める。
四ヶ月で、下士官教育を完了する合理的な教育システムを構築。
当然、テキストとして使われるのは、蔵六が、翻訳をしたもの。
6月24日、山口の兵学校を、三兵学科塾と改称。
戦略、戦術を学ぶ、士官教育を実施。
村田蔵六は、長州藩の軍制改革の部隊編成、教育改革を主導、実施し、ソフト面での整備を進めますが、問題は、兵器というハード面の整備。
この兵器、武器の購入は、桂小五郎が、村田蔵六と共に、主導することになる。
当時、村田蔵六が、購入を目指していたのは「ミニエー銃」と呼ばれる、新型の洋式銃。
この外国からのミニエー銃の購入は、なかなか、難航した。
蔵六は、経歩兵用の、銃身の短い「ショート・ライフル」を、長州軍の正式銃にしようと考えていたよう。
しかし、この長州藩によるミニエー銃の買い付けは、なかなか、思うように進まない。
この頃、この「ミニエー銃」を装備し、洋式歩兵の調練を受けていた軍隊は、幕府歩兵隊の他は、一部の藩の、一部の部隊だけだったよう。
この「ミニエー銃」は、椎の実型の弾丸を、ライフルによって発射し、命中精度、射的距離を、これまでの「ゲベール銃」に比べて、格段に向上させたもの。
数で劣勢の長州軍は、その劣勢を補う手段として「ミニエー銃」を装備させることを決定する。
桂小五郎は、中岡慎太郎、坂本龍馬らとの接触で、薩摩藩が、幕府を見限り、長州藩に手を貸そうとしている意思があることを知る。
桂小五郎は、伊藤博文、井上馨らに、中岡慎太郎、坂本龍馬らと共に、武器の購入に全力を挙げることを命じる。
しかし、この桂小五郎による、薩摩藩を通じた、強引な、小銃、軍艦の購入には、藩内で、反発を生むことにもなる。
村田蔵六もまた、桂小五郎の行動には、懸念を感じていたようですが、薩摩藩と手を結ぶことの重要性を、桂に手紙で説かれ、蔵六もまた、桂の行動に賛同することになる。
8月22日、村田蔵六の母、「むめ」が死去。66歳。
8月26日、薩摩藩によって購入されたミニエー銃4300挺が、薩摩藩の船によって、三田尻で陸揚げされる。
藩庁は、薩摩藩との和解、武器、軍艦の購入を、桂小五郎に一任することを決定。
現在、残されている村田蔵六の書状には、長州藩の軍事のハード面、ソフト面の、様々なことが、細かいことまで記録されていて、蔵六が、長州藩の軍事の全てを、把握し、管理していたことが分かるそう。
まさに、村田蔵六、大村益次郎は、長州軍のあらゆる面で、中心にあったということ。
そして、村田蔵六の作り上げた、長州軍の兵士たちは、満を持して、幕府軍を迎え撃つことになる。
以下、「第二次長州征伐」、長州藩側からは「四境戦争」へ、続きます。