江戸時代に、旭川が氾濫し、岡山の城下が水没するのを防ぐため、放水路として「百間川」が作られました。

そして、この百間川の河川敷には、古くから、いくつかの集落の遺跡があることが知られていたそうです。

そして、昭和51年から翌年にかけて、原尾島から米田までの約7キロで、詳細な調査が行われたそうです。

 

百間川の遺跡としては、西から「原尾島遺跡」「沢田遺跡」「兼基・今谷遺跡」「米田遺跡」となります。

 

「原尾島遺跡」は、原尾島橋から百間川橋の間にある遺跡で、縄文時代後期から室町時代にかけての村があったそうです。

 

「沢田遺跡」は、沢田橋下流にあった遺跡で、縄文時代後期の頃の集落で、すでに農耕が行われていた可能性が有るそうです。

弥生時代の村には、環濠があり、室町時代には、周辺の拠点の村だったよう。

 

「兼基・今谷遺跡」は、沢田橋下流から、神下橋の間にあった遺跡で、弥生時代、古墳時代、鎌倉時代の村が見つかっているそう。

中でも、弥生時代中期の遺跡からは、掘立柱建物群が、発見されているそう。

 

「米田遺跡」は、神下橋から、米田橋にかけての遺跡で、百間川が、大きく、東から南へと流れを変える地点の辺り。

弥生時代から古墳時代の村、奈良時代から室町時代にかけての掘立柱建物群や、道、堤防、橋脚などが、発見されているそうです。

 

さて、この中の「沢田遺跡」のあった辺りに、竪穴住居が復元されているということで、見に行ってみました。

 

百間川、北側の土手の上から。

 

ここが、遺跡が復元されている場所です。

 

こちら、百間川遺跡群と、復元された竪穴住居の説明版です。

 

竪穴住居は、東から、A、B、C、D、E、の五つ。

それぞれに、説明があります。

 

まずは、Aについて。

 

兼基遺跡で発見された、弥生時代中期の竪穴住居。

床面には、火を使用した跡が、二カ所、あったそう。

 

次は、B。

 

 

沢田遺跡で発見された竪穴住居。

古墳時代前期のもので、中央には、炭の入った穴、壁際には、貯蔵用の穴があったそう。

奥の丸い穴が、貯蔵穴でしょう。

 

次は、C。

 

 

こちらは、原尾島遺跡で見つかった古墳時代前期の竪穴住居。

床面の中央には、火を使用した跡と、小石を敷き詰めている場所があったそうです。

V字のところに、小石が敷き詰められていたのでしょうかね。

 

次は、D。

 

 

こちらは、原尾島遺跡で見つかった、古墳時代後期の竪穴住居。

壁の中央にカマドがあっったそうで、恐らく、これが、カマドでしょう。

 

最期の、E。

 

こちらも、原尾島遺跡の竪穴住居。

住居は、弥生時代後期のもので、火災にあっていたそうです。

柱の多い、大型の竪穴住居です。

 

こちらは、米田遺跡から発見された室町時代の橋の跡を復元したものだそうです。

敷石に橋脚の跡。

 

復元された竪穴住居は、土を盛り上げて、作ってあるようですが、本来は、地面を掘り下げた格好で作られるのが竪穴住居のはずで、その点は、復元の都合によるものでしょう。

 

古代吉備文化センターに、この百間川遺跡群で発掘されたものが保管をされているようですね。

 

他の人の書いたページを見ると、遺跡は、発掘調査の後、埋め戻されているようで、どこが発掘現場だったのか、今では、表示もなく、分からなくなっているようです。