天下の人は、みんな、美しいものは、美しいということを知っている。

しかし、これは、醜いものに他ならない。

また、みんな、善いものは、善いものだと思っている。

しかし、これは、善くないものであることに他ならない。

 

そのため、「有る」と「無い」とは、お互いがあってこそ、生まれる。

「難しい」と「易しい」は、相手があってこそ、成り立つ。

「長い」と「短い」は、相手があってこそ、決まる。

「高い」と「低い」もまた、同じ。

「前」と「後ろ」も、相手があってこそ、並び立つ。

 

そのため、聖人は、無為の立場に身を置き、言葉によらない教化を行う。

 

聖人は、万物の、自ら生まれることに任せて、作為を加えず、万物を生み、育てても、所有せず、恩を施しても、見返りを求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住しない。

 

聖人は、その功績に安住しないから、その功績は無くならないのである。

 

 

さて、上の本を元に、「老子」の第2章を、私的に解釈します。

 

「美しい」ということと「醜い」ということ。

 

価値観は、人によって、それぞれ、違うもの。

自分自身の判断が、絶対だと思わない方が良いでしょう。

 

「善い」ことと「悪い」こと。

 

戦争や、喧嘩。

どちらが、「正義」で、どちらが「悪」か。

そんなこと、決められる訳がない。

見方によって、「正義」も「悪」も、簡単に、変わってしまう。

それほど、こだわる必要があるのかどうか。

 

全ては、「相対的」に決まるもの。

この広い宇宙に、「絶対的」なものは、何も無い。

 

では、「真実」は、どこにあるのか。

 

それは、「無為」の中にあります。

 

「真実」を見つけるためのヒントは、「無為」の中にある。

 

後半部分の解釈は、また、いずれ。