さて、また、この本から、縄文時代の遺体の埋葬について。

 

 

人が、亡くなれば、埋葬される訳で、恐らく、定住生活が一般的になる前は、それほど、遺体の「埋葬」というものに、こだわりは無かったのではないかと想像します。

なぜなら、遺体を埋葬した土地とは、すぐに、離れてしまうため、「人を葬った」ということに、それほど、こだわったところで、意味の無いこと。

後は、野となれ、山となれ、と、言った感覚だったのではないでしょうか。

 

少し、余談ですが、確か、あのモンゴル帝国の初代皇帝、チンギス・ハーンは、自分のお墓を、徹底的に、誰にも見つからないよう、隠してしまったという話だったと記憶しています。

これも、やはり、遊牧民族で、強大な権力者でも、大きな墓、立派な墓というものに、こだわりが無かったのかな、と、想像するところです。

 

さて、縄文時代に形成された「貝塚」の中から、縄文時代の人の遺骨が、多く発見されています。

しかし、この、貝塚から発見された遺骨は、必ずしも、捨てられたものではない。

貝塚の中で、ちゃんと、埋葬された人の骨、と、言うことになるそうで、そのため、この「貝塚」は、単なる「ゴミ捨て場」ではなく、「再生」を願って、役割を終えたものを集めておく場所だったのではないかと推測をされるようです。

 

さて、縄文時代の埋葬法ですが、時代や、地域によって、大きな違いがあるそうですね。

 

浅い穴を掘って、そこに遺体を横たえ、上から土をかけるだけといった簡単なもの。

穴を深く掘って、周囲に杭を打ち込んで、土留をした、手の込んだものもあるそうです。

現代の墓のように、埋葬地の上に、石を置いたものもあるそうです。

 

有名な、青森県の三内丸山遺跡では、幅10数メートルの道を挟んで、遺体が、整然と、二列に並んで、埋められていたそう。

しかも、遺体は、全て、足を、道の方に向け、穴は、足の方が低くなる形だったそうで、遺体の埋葬法に、決まりがあったことが分かる。

ただし、この方法で埋葬されたのは、大人の遺体ばかりで、子供の遺体は、土器の中に収められ、土器ごと、居住地に近い場所に、密集して埋められていたそうです。

この事例から、大人と子供では、「死」が、区別されていたことが分かりますよね。

 

また、妊婦の遺体は、特別な埋葬法になっている場合が多いそうです。

妊婦を模した土偶が、多く作られたように、やはり、「妊婦」という存在は、縄文時代の人たちにとって、特別なものだったのでしょう。

 

面白いことに、「イヌ」の遺体もまた、丁寧に埋葬されているものが、多く、見つかっているそうです。

イヌの埋葬は、縄文時代早期から始まり、後期から晩期にかけてが、最も、多いそう。

縄文時代の人にとって、イヌが、特別な存在だったことが、よく分かります。

 

ちなみに、弥生時代になると、イヌの埋葬は、極端に減ってしまうそうです。

これは、弥生人が、イヌを、大切なパートナーではなく、「食糧」として見ていたことと関係しているようです。

 

また、縄文時代の墓の様子を見ると、社会の中に「格差」があったということが確認出来るということ。

同じ遺跡の中で見つかったお墓でも、穴の大きなものや、小さなもの。

装飾品と一緒に埋葬されているものと、そうでないもの。

恐らく、どちらの場合も、前者の方が、後者よりも、身分が高い人。

 

つまり、縄文時代もまた、平等な社会ではなかったということですね。

 

さて、時代区分で言えば、縄文時代の中期までは、腰や膝を曲げて、身体を丸めた状態で埋葬する「屈葬」が多く、後期以降で、手足を伸ばして、仰向けで埋葬する「伸展葬」が始まるそうです。

また、白骨化した遺体の骨を取り出して、改めて、埋葬し直す「複葬(再葬)」という方法もあったとか。

 

この「人を、どのようにして埋葬するのか」という方法を見ると、その文明の「死生観」というものが、何となく、分かりますよね。

 

個人的に、関心かあるのは「屈葬」で、なぜ、遺体の身体を、不自然に丸めて、埋葬したのか。

 

一つの説としては、遺体に、「胎児」と同じ格好をさせることで、「再生」を願ったというもの。

これは、恐らく、子供の遺体を、大人の遺体とは別に埋葬しているのも同じで、やはり、子供の遺体は、大人の遺体よりも、より早く「再生」に繋がるという思いがあったのではないでしょうかね。

 

やはり、縄文時代の人たちは、「死」というものを、「終わり」だとは、思っていなかったということのようです。

この世で、一度、命を終えたものは、また、いつか、再び、この世に、新たな命として誕生する。

それが真実ならば、面白いのですが。