さて、大村益次郎の人生を、見て行きたいと思います。

 

 

この本から、個人的な考えも交えながら。

 

大村益次郎は、文政8年(1825)5月3日、周防国吉敷郡鋳銭司村大村で、父、村田孝益と、母、むめ(梅)との間に、誕生します。幼名は、宗太郎。

村田家は、代々、医業を営んでいました。長州藩の戸籍では、村田家は、「四半軒」とあり、本百姓の中では、最下層に位置していたそうです。

実は、村田家は、宗太郎が生まれた頃、経済的に、かなり困窮をしていて、父、孝益は、村田家を畳んで、一度、実家である藤村家に戻り、藤村家の支援を受けながら、宗太郎を、立派な医者にしてから、再び、村田家を再興しようと考えたそうです。

 

宗太郎が、本格的に学問を始めたのは、天保13年(1842)、18歳の時に、周防国佐渡郡三田尻村の蘭方医、梅田幽斎の塾に入ってからで、人生、最初の本格的な学問が「蘭学」だったというのは、意外なところで、実は、これには、理由があります。

長州藩では、この前年から、藩の医学校への入学を、広く、藩医の門人、陪審の医者、村医者の他、他藩の者にまで、広く、門戸を開いていたそうで。宗太郎は、その中で、梅田幽斎を選んだということになる。

実は、後に、尊皇攘夷の猛烈な風の中心になる長州藩ですが、かなり、早い段階から蘭学の導入に熱心で、天保9年(1838)、当時、江戸で高名な蘭学者、蘭方医だった坪井信道を長州藩に招きます。梅田幽斎は、この坪井信道の門弟で、あの緒方洪庵もまた、この坪井信道の門弟です。

 

さて、梅田幽斎の元で、蘭学の修業を始めた宗太郎ですが、一年が過ぎた頃、梅田幽斎から「蘭学の修業をするには、まず、漢学を勉強する必要がある」と言われ、豊後国日田にある、当時、日本で、最も、有名な漢学塾の一つだった広瀬淡窓の咸宜園に入ることになります。

なぜ、「蘭学」の勉強をするのに「漢学」の知識が必要なのか。

それは、まず、「蘭方医」になるためには、「漢方医」の知識が、当然、必要だったということ。そして、「オランダ語」を「日本語」に翻訳する手段として、その仲立ちとして「漢文」の知識が必要だったということのようです。

つまり、当たり前に、「漢文」の素養が無ければ、オランダ語の翻訳をすることが出来なかったから、と、言うことになります。

 

この辺り、大鳥圭介とは、経緯が逆ですよね。

 

大鳥圭介は、まず、備前国の「閑谷学校」で漢学を学び、医者の修行を始めた時に、「蘭学」に出会うことになる。

そして、大村益次郎と同じ「適塾」で学んだ後、江戸に行き、軍事の専門家に転向。

幕府陸軍、歩兵、伝習隊の指揮官となり、大村益次郎とは逆の立場で、戊辰戦争を戦うことになる。

 

天保14年(1843)4月7日、宗太郎は、同門の三人と共に、咸宜園に入ります。

そして、咸宜園を出るのが、翌年の6月29日。

その間、順調に昇級を兼ねている宗太郎の様子が、日記から、確認出来るということ。

途中、仲間たちと、九州各地の旅を楽しみながらの勉強期間でしたが、どうも、「卒業」という形式で、咸宜園を去った訳ではないようで、もしかすると、宗太郎は、再び、咸宜園で学ぶつもりがあったのかも、と、想像出来るということです。

 

天保15年(1844)9月13日、宗太郎、梅田幽斎の塾に復帰。

その後、宗太郎は、大坂の緒方洪庵の適塾に入塾する訳ですが、それが、何時なのか、詳細は、記録が無いので、分からないそうです。

適塾の記録では、52番目に「村田良庵」の名前があるそうで、71番目の入門者以前は、入門の年月日が無いということ。しかし、前後の記録から、良庵の適塾入門は、弘化3年(1846)であることは間違いないということ。

 

適塾の塾生については、福沢諭吉や大鳥圭介などの話から、かなり、破天荒で、若者らしい荒々しさに溢れている様子だったようですが、宗太郎、改め、村田良庵は、実に、品行方正で、真面目に蘭学修業に取り組んでいたようです。

また、同い年で、同郷の伊藤精一という人物と、とても親しくしていたそうで、伊藤が、適塾に入ったのは、良庵の入塾から二年後の嘉永2年(1848)のこと。

この伊藤精一もまた、適塾で、後に塾頭を務めることになる天才で、また、意外なことに、あの尊皇攘夷過激派の中心人物、久坂玄瑞の兄、久坂玄機は、蘭方医で、良庵の入塾の翌年の6月に、適塾に入門し、「長州随一の秀才」という呼び声の通り、入門の翌年には塾頭になった、まさに天才。大村益次郎の他にも、適塾の塾頭を務めた長州人が、二人も居たとは。

村田良庵が、適塾の塾頭になったのは、この久坂玄機が、適塾を去った直後のこと。

早くから蘭学の導入と人材の育成に熱心で、適塾の塾頭を務めることが出来る天才を、次々と排出した長州藩が、なぜ、尊皇攘夷思想に席捲されてしまうことになったのか。

 

嘉永3年(1850)、26歳の時に、村田良庵は、適塾を去ります。

ちなみに、伊藤精一が、塾頭になったのは、嘉永5年(1852)。

伊藤精一は、安政5年まで塾頭を務め、歴代最長だそうです。

 

適塾を出た村田良庵は、故郷の鋳銭司村に帰ります。

最初に決められてあった通り、村田家を再興し、村医者となります。

良庵の修業生活は、藤村家からの支援で、経済的には、割と、恵まれていたようです。

しかし、どうも、良庵の医業は、あまり、流行らなかったようですね。

それは、とても生真面目で、不必要な治療はしないし、不必要な薬は与えないという良庵の医療方針にあったよう。

そして、嘉永5年(1852)1月、良庵は、コト(琴、琴子)と結婚。コト、18歳。

医業は流行らず、わずかな門人に蘭学を教えていたようですが、これでは、先が無いと考えたのか、良庵は、嘉永6年(1853)9月28日、故郷を離れ、宇和島に向かいます。

 

村田良庵は、なぜ、宇和島に向かったのか。

通説では、宇和島藩主、伊達宗城によって招聘されたということになっていますが、良庵の日記からすると、それは、間違いのようです。

良庵は、各地の医師を訪ねながら、宇和島に向かう訳ですが、その途中で、伊藤精一と再開することになります。実は、伊藤精一は、破天荒な門人の多かった適塾塾生の中でも、特に、破天荒だったようで、緒方洪庵から、破門の処分を受け、たまたま、良庵の立ち寄った先に滞在していたということ。

良庵は、伊藤精一から話を聞き、宇和島で、改めて、話をすることにして、取りあえず、宇和島に向かうことになる。

 

宇和島に入った良庵は、二宮敬作を訪ねます。この二宮敬作は、シーボルトの高弟だった人で、「シーボルト事件」で処分を受けた後、宇和島藩領内の卯之町で医業を行っていた。

二宮敬作は、良庵を、大野昌三郎という人物に会わせる。大野昌三郎は、高野長英の門人だった人物。

高野長英は、逃亡生活の中で、一時、宇和島藩に留まり、藩の近代化に尽力をしていた。

この大野昌三郎が、村田良庵の、宇和島藩への出仕に、力を貸すことになる。

 

こうして、何とか、村田良庵は、宇和島藩に出仕をすることになる訳ですが、当初、その待遇に、大きく不満があったようで、良庵は、帰国の意思を伝えていたそうですね。

しかし、周囲から、慰留されて、宇和島に留まることに決めたということ。

良庵の待遇も改善され、妻、コトを、呼び寄せることになる。

ちなみに、良庵は、宇和島藩で、医師として仕事をすることを禁止されていたそうですね。

それは、周囲の医師たちとの軋轢を避けるため。

そして、良庵は、村田蔵六と、名前を改めることに。

 

嘉永7年(1854)1月、村田蔵六は、宇和島藩の軍の近代化に尽力する訳ですが、その中でも、有名なのは、洋式蒸気軍艦の雛形の建造。

更に、蘭学の講義や、蘭書の翻訳などにも、多忙を極めることになる。

結果的に、高野長英の後任を、村田蔵六が務めることになった訳ですが、高野長英の始めた事業の多くも、村田蔵六が、そのまま、引き継ぐことになったようです。

そして、村田蔵六は、シーボルトの娘、イネとも、この宇和島で出会うことになる。

 

大村益次郎の書き残したものを見ると、この宇和島に居た時代に、「蘭学」「軍事」「政治」を、一つとして考えるようになりはじめたようですね。

 

さて、伊藤精一についてですが、村田蔵六は、宇和島で、再び、伊藤精一と再会すると、約束通り、緒方洪庵との間で、破門の取り消しのために尽力をしている。

そして、嘉永7年(1854)4月、伊藤精一は、適塾への復帰が叶うことに。

ちなみに、伊藤精一は、伊藤慎蔵と改名します。

 

安政3年(1856)1月、村田蔵六は、藩主、伊達宗城の参勤交代に随行し、そのまま、江戸で勤務をするよう命令を受けます。

2月、蔵六は、妻、コトを、一度、実家の戻すため、伊予国吉田まで送ります。

3月12日、藩主から一日、遅れて、蔵六も、宇和島を出発。

宇和島から丸亀まで、六日。丸亀から船で、姫路へ。大坂では、適塾、緒方洪庵の元に顔を出し、4月9日、江戸に到着。

 

ちなみに、一度、故郷に戻した妻、コトですが、江戸での生活が安定し、蔵六が、江戸に呼び寄せようとしたところ、「江戸は、遠すぎる」と、親が、江戸行きに反対をしたようで、蔵六は、それならば、と、一度、離縁をしたようです。

しかし、何と、その後、コトは、勝手に、一人で、江戸に来てしまった。

離縁をした女性を、家に置いておく訳には行かないと、蔵六は、考えたようですが、取りあえず、使用人として、同居をすることになったようで、その後、復縁をすることになる。

 

村田蔵六は、江戸で、箕作秋坪、山本右仲といった、知り合いの蘭学者たちを訪ね、更には「眼病の治療」と嘘をついて、大槻俊斎の門人になっている。

この大槻俊斎は、シーボルトの弟子だった人物で、当時は、仙台藩の藩医で、私塾も開いていた。

わざわざ、嘘をついて門弟になったのは、藩から指定された長屋に住むという命令に反することだったため。

 

数ヶ月、大槻俊斎の門人として生活をした後、蔵六は、巣鴨にある宇和島藩伊達家の別邸に引っ越し。

そして、蔵六の元にも、門弟が多く集まるようになったため、安政3年(1856)11月、藩の許可を得て、私塾「鳩居堂」を開きます。

 

そして、「鳩居堂」を開いて間もなくの11月16日、幕府から、宇和島藩に、蔵六を、講武所に出仕させるよう、命令が届きます。

11月22日、講武所に加えて、蕃書調所への出仕も命じられます。

村田蔵六は、宇和島藩士として、幕府に出仕することに。

 

なぜ、幕府が、村田蔵六に、講武所、蕃書調所への出仕を命じたのか。

その経緯は、判然としないそうです。

推測としては、蔵六が、旧知の箕作秋坪のツテで、江戸、蘭学界の重鎮、箕作阮甫を訪ねているので、その箕作阮甫が推薦をしたのか。また、蕃書調所の頭取、古賀謹一郎が、しばしば、宇和島藩邸を訪ねているそうで、その時に、話が出たか。

 

村田蔵六が、この幕府の蕃書調所に出仕をしたということは、その後の、村田蔵六、大村益次郎の人生に、決定的な、大きな意味を持ちます。

それは、幕府の持つ、外国の情報や、幕府の政策、外交を、蔵六が、直接、知る立場になったということ。

この重要性は、宇和島藩も気がついていて、宇和島藩は、蔵六を、幕府に出仕させながら、更に、待遇を上げ、蔵六を、重用しているそうです。

そして、蕃書調所で得た情報を、蔵六は、宇和島藩に、流している。

 

この時、蔵六が、直接、見ることになった外交文書や、聞くことになった幕府内部の政治状況を知り、蔵六は、幕府という組織に、非常に、大きな不満を募らせていくことになります。

 

安政5年(1858)3月、青木周弼の提言によって、江戸桜田の長州藩上屋敷で、「蘭書会読会」が開かれます。

この「蘭書会読会」は、月に3回開かれ、主に、兵書を中心として、その成果は、長州藩の軍制改革に生かされることになります。

この「蘭書会読会」には、長州出身の村田蔵六や、当時、藩内で頭角を現わしつつあった、桂小五郎も参加をしていました。

村田蔵六、桂小五郎は、ここで顔を合わせ、意気投合したようです。

 

長州の蘭学者たちが、桂小五郎を、この「蘭書会読会」に参加させたのは、この会で話されたことを、直接、藩の政治に反映させることが出来る人物として、桂小五郎が期待をされたからだろうということ。

しかし、その期待は、尊皇攘夷の猛威の中で、かき消させることになる訳ですが。

 

安政5年(1858)12月、蔵六は、父の病気の看病のため、幕府、そして、宇和島藩に休暇の願いを出し、一時、江戸を離れます。

実は、この頃、桂小五郎、村田蔵六は、「竹島」の問題について、色々と、話し合っていたそうです。

どうも、この「竹島」は、かつて、日本の領土だったものの、元禄期に朝鮮に引き渡したという認識があったようですね。

その「竹島」を、出来るだけ早く、「日本の領土」として開拓をしておくべきではないかという考えを、桂小五郎、村田蔵六は、持っていたようです。

 

この安政5年(1858)、長州藩では、周布政之助を中心とするグループが、政権を握ります。

この時に行われた安政の改革の中心は、長州藩の軍制改革で、全ての兵士を、洋式銃を持った歩兵として調練することだったようです。

しかし、この軍制改革の目的は、あくまでも、朝廷の唱える「攘夷」を実行するため。

この軍制改革の中心になったのは、来原良蔵で、長崎海軍伝習所に居たオランダ人教官の下に、人を送り、直接、歩兵の伝習を受けさせ、彼らが帰藩後に、長州藩で、彼らの指導の下、歩兵の演習が始まることになる。

 

この軍制改革の強化の中で、長州藩は、「蘭書会読会」に参加していた蘭学者、村田蔵六や手塚律蔵を、長州藩士として召し抱えようという話が出ます。

しかし、手塚律蔵については、当時、佐倉藩に召し抱えられていて、佐倉藩の反対により、長州藩で召し抱えることは失敗に終わる。

村田蔵六に関しては、安政6年(1859)8月頃から、具体的に、話が動き始めたそうで、「今後も、宇和島藩が必要な時には、自由に使ってもらって、構いません」という条件を出し、引き抜きに成功。

 

そして、村田蔵六は、長州藩士となる。

 

長州藩士となった村田蔵六は、そのまま、江戸での暮らしを続けます。

当然、幕府への出仕もまた、これまで通り、続けることに。

そして、幕府の政治、外交の内情が、村田蔵六を通じて、長州藩に伝えられることになります。

 

村田蔵六は、桂小五郎と共鳴していた「竹島」の開拓問題を、幕府に働きかけることにします。

村田蔵六の訴えは、幕閣にまで届きますが、幕府という巨大な組織の中で、物事が容易に動く訳もなく、蔵六は、期待外れの返答に激怒をしたようです。

 

さて、この「竹島」に関する問題ですが、「元禄期に朝鮮に譲渡した」という認識が、当時の日本にあったというのは、驚きです。

しかし、どうも、その詳しい事情や、譲渡をした時期というのは、よく分からないということのよう。

長州藩が、目の前の日本海に浮かぶ「竹島」の確保を重視したのは、列強の圧力に晒される中で、当然の話だったのでしょう。

 

しかし、幕府は、そういう問題に無関心だった訳ではなく、すでに、アメリカが手を伸ばしつつあった「小笠原諸島」には、人を派遣し、領有宣言をして、確保に成功しているし、ロシアの手が伸び始めていた「対馬」でも、イギリスの協力を得て、何とか、ロシアの廃除に成功している。

 

長州藩にとって、目の前の「竹島」は重要なものだったのでしょうが、幕府にとっては、「小笠原諸島」や「対馬」ほど、関心のある島では無かったということなのでしょうかね。

 

また、村田蔵六は、長州藩の洋式兵学の研究、教育機関である「博習堂」の蔵書の選択や整備を任されていたそうで、しかし、これは、江戸に居ては、なかなか、思うように進まないことから、万延元年(1860)1月、長州、萩に入る。

 

実は、この頃、幕府は、蕃書調所、講武所などに出仕させていた人物を、幕臣として採用する活動を進めていたようで、もしかすると、タイミングがずれていれば、村田蔵六も、長州藩士から、幕臣になっていたかも知れない。

 

文久元年(1861)3月、長州藩は、直目付、長井雅楽の「航海遠略策」を持って藩論とし、活動することを決めます。

これは、長州藩が、朝廷と幕府の間を周旋し、「公武合体」によって「開国」を推し進め、国力を強化し、欧米列強に対抗しようというもの。

これまで、蘭学、洋式兵学の導入に熱心で、藩の近代化を進めてきた長州藩としては、自然な「藩論」だと言える。

村田蔵六が、江戸に戻った頃から、この「航海遠略策」による長州藩の活動は始まったようで、長州藩の政治の中心に居た周布政之助も、当然、これに同意していた。

桂小五郎もまた、この「航海遠略策」には、反対ではなく、この頃は、まだ、一橋慶喜、松平春嶽らによる幕府改革に期待をしていたようです。

 

ちなみに、当時、桂小五郎は、周囲からは尊皇攘夷派に近いと思われていたようですね。長井雅楽は、桂小五郎を、警戒の目で見ていたようです。

 

しかし、一方、長州藩の内部では、久坂玄瑞らを中心として尊皇攘夷過激派の動きが、活発化を始めていました。

彼らは、藩の統制を受けず、いわゆる、「草莽の志士」たちとの繋がりもあり、独自に、朝廷や、過激派公卿と接触をしていました。

彼ら、尊皇攘夷過激派の志士たちの行動は、日本全体、そして、長州藩を、混乱に陥れることになります。

 

文久2年(1862)8月、緒方洪庵が江戸に出て来ます。これは、緒方洪庵が、幕府の奥医師に任命されたため。

蔵六は、度々、緒方洪庵の元に顔を出し、生活の世話をしていたそうです。

 

同じ頃、長州藩では、藩の軍制の洋式化の中心人物だった来原良蔵が、自害します。

彼は、長井雅楽の甥であり、桂小五郎の義兄、吉田松陰の友だったそうですね。

実は、この自害は、長井雅楽の「航海遠略策」が、藩内の尊皇攘夷過激派から猛烈な反対を受け、撤回に追い込まれたことと連動している。

 

長州藩が、藩論として「航海遠略策」を取り上げると、来原良蔵もまた、この「航海遠略策」の実現のために、奔走します。

しかし、長州藩が、「航海遠略策」の撤回したことで、来原良蔵は、これまでの自分の行動を批判せざるを得ず、自害という道を選んだということ。

そして、長井雅楽、本人も、自害に追い込まれたことで、長州藩の政治は、久坂玄瑞ら、尊皇攘夷過激派の手に乗っ取られてしまうことに。

 

長州藩の政治の中心にいたのは、周布政之助ですが、藩内の尊皇攘夷過激派の行動を抑えきれなくなった周布政之助は、この尊皇攘夷過激派の行動を受け入れるということで、長州藩の内部分裂を防ごうとしたようです。

実際、かつて、この「尊皇攘夷」の中心地だった水戸藩は、激しい内部対立が起こり、藩内の収集がつかなくなり、幕末、水戸藩は、政治の主導権を取ることが出来なくなってしまった。

周布政之助は、この水戸藩のような状態になることは、避けたいと考えたのでしょう。

 

また、「航海遠略策」は、「公武合体」「開国」を目指して長州藩が、幕末政治の主導権を握ろうというものでしたが、これは、薩摩藩と同じ考えで、薩摩藩は、長州藩よりも、一歩、先んじた立場にあった。

このまま、薩摩藩と同じ立場を取っていても、長州藩は、薩摩藩の後塵を拝するだけで、幕末政治の主導権を握ることが出来ない。

ならば「尊皇攘夷」を前面に出し、薩摩藩を追い抜いて、幕末政治の中心に躍り出ようという考えも、周布正之助には、あったのかも知れない。

 

そして、実際に、長州藩の尊皇攘夷過激派は、朝廷の過激派公卿と結びつき、幕末政治の中心となって行く。

 

ちなみに、長州藩内部での尊皇攘夷の嵐の中で、江戸の村田蔵六は、周布政之助から、意外な依頼を受けます。

それは、長州藩の人間、五人を、外国に密航させる斡旋をしてくれないかというもの。

伊藤博文、井上馨、山尾庸三ら、いわゆる「長州ファイブ」と呼ばれる人たち。

蔵六は、彼らを、イギリス行きの船に乗せ、留学させるために奔走します。

 

長州藩が、尊皇攘夷過激派の手に落ちる中で、それでも、将来の開国を見据えて、周布政之助が、有志を、外国に留学させる決断をしたのは、尊皇攘夷は、正しいものではないと認識をしていたからでしょう。

 

そして、文久3年(1863)5月10日。

 

尊皇攘夷過激派に乗っ取られた長州藩は、下関を通行する外国船を砲撃するという暴挙に出ます。

 

以下、更に、続きます。