以前、「宇喜多直家、秀家を大河ドラマに」という話をした時に、司馬遼太郎の小説「花神」が、昔、大河ドラマになったというコメントを頂きましたので、懐かしく、思い出したところ。

最も、大河ドラマ「花神」を見ていた訳ではなく、司馬遼太郎の小説「花神」を読んだ、高校生の頃のこと。

 

 

この小説を読んだのは、高校生の時のことで、当時は、同じ、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」「新選組血風禄」を読んで、「幕末史」というものに、興味を持ち始めたばかりの頃。

そのため、この「花神」で、主人公だった「大村益次郎」という人物を知り、「日本の歴史の中に、まるで、『三国志演義』の諸葛亮孔明のような天才軍略家が居たのか」と、驚いたところ。

 

そして、この「大村益次郎」について、詳しく知りたいと思ったのですが、当時は、ネットも無く、本を探すのも、一苦労。

ようやく、手に入れたのが、中公新書「大村益次郎」だったのですが、まだ、幕末史について知識の浅い僕には、何を書いてあるのか、内容を、よく理解することが出来ず、あまり面白く無かったのを覚えています。

 

その後も、この「大村益次郎」については、関心を持っては居たのですが、そもそも、世間で、それほど人気の高い人物という訳ではないためか、「大村益次郎」個人をテーマにした本というものは、ほぼ、無い。

それで、様々な、幕末関係の本に登場する「大村益次郎」についての情報を集めるだけで、漠然としてイメージを形成していました。

 

そして、今回、このコメントを見て、懐かしく、ネットで検索をしてみると、ありましたね。こういう本が。

 

 

さっそく、購入し、途中まで読んだのですが、なかなか、面白い。

 

これまで、持っていた「大村益次郎」に関するイメージと、異なるものも、いくつか。

 

一つは、「人間関係に無頓着で、他人を怒らせても、何とも思わなかった」という性格について。

 

これは、様々な逸話で語られるところで、最も、有名な話なのではないでしょうかね。

しかし、これは、間違いです。

 

大村益次郎は、人間関係というものを、非常に大切にし、他人に対して、とても、気を遣い、他人のために行動することが出来る人物だったようです。

それは、上の本を読めば、よく分かります。

 

一つは、「大村益次郎は、馬に乗れなかった」というもの。

 

この逸話も、事実では無いのではないかと、上の本には書かれていました。

 

大村益次郎は、江戸に居た時に、一時、ヘボンから英語を学んでいるのですが、その時には、相当の遠距離を通っていたそうで、どうも、徒歩で通ったとは思えない、やはり、馬に乗って、通ったのではないかと書かれていました。

 

そして、蘭学者としての大村益次郎について。

 

やはり、「適塾」で塾頭をしていたとなると、当時、高名な蘭学者として、引く手あまただったのではないかと思っていたのですが、どうも、当初、大村益次郎は、そういう立場ではなかったようですね。

やはり、宇和島藩に雇われた時など、最初は、かなり低い条件で雇われ、その働きによって、蘭学者としての実力を示し、評価されていったという経緯のよう。

 

そして、大村益次郎が生まれ、所属をした「長州藩」について。

 

個人的には、「幕末史」に興味を持ち、色々と、本を読むようになってからも、「長州藩」を主役にした本というものは、これまで、一冊も読んだことが無かった。

 

そのため、個人的には、幕府をテーマにした本から読み取れる長州藩のことしか分からず、その内情の詳しいことは、何も知らないと言って良いところ。

 

なぜ、長州藩が、「尊皇攘夷過激派」の中心地となったのか。

 

なぜ、長州藩が、いとも、あっさりと、その「尊皇攘夷」を捨てたのか。

 

この幕末期の長州藩の内情も、大村益次郎を中心にして、と、言うことになりますが、なかなか、興味深いもの。

 

以下、続きます。