瀬戸内市邑久にある「門田貝塚」に行ってみました。

この「門田貝塚」は、公園として整備されていて、竪穴式住居が二棟、復元されているということで、どのようなものかと思ったのですが、意外と、規模の小さい、普通の町の中の公園でした。

 

「ゆめタウン」邑久店から、少し、住宅地を西に歩くと、このような入口がありました。

「史跡・門田貝塚」と書かれていますね。

 

その入口、石柱の隣に、「門田貝塚」についての説明版があります。

 

そして、公園を上から見た、平面図です。

茶色の、二つの丸いのが、復元された竪穴式住居。

水色の溝の部分が、「貝塚」のあったところ。

濃い青色の部分は、復元された「貝塚」の部分。

そして、公園の周囲の木には、弥生時代に、食糧や、住居、農機具の材料として使われた木が植えられているそうです。

 

こちら、復元された竪穴式住居です。

残念ながら、中を見ることは出来ないようです。

 

こちら、竪穴式住居についての説明版。

 

こちらは、土器についての説明です。

 

さて、本当なら、手前の丸いところに、もう一棟、竪穴式住居があるはずなのですが、今、無いよう。

他の人の書いたページを見ると、何年か前に、火事で、焼失したようですね。

 

こちらが、復元された「貝塚」です。

 

地面の貝殻は、当時、捨てられたもの。

しかし、いかにも、整備をされたものとなると、あまり、感動は無い感じ。

 

 

 

こちらは、「貝塚」や、当時の人たちの生活についての説明版です。

 

ネットで調べると、この「門田貝塚」は、弥生時代から鎌倉時代にかけての、大規模な複合遺跡だそうです。

 

吉井川の東岸に位置し、吉井川が形成した自然堤防の上にあったそうです。

現在の地理では、吉井川からは、相当、離れた位置にあり、自然堤防であった痕跡はうかがえない。

 

昭和8年(1933)、郷土史家の人によって発見されたそうです。

その後、度々、発掘調査が行われ、昭和57年(1982)、弥生時代から鎌倉時代にかけての大規模な複合遺跡であることが確認される。

昭和60年(1985)、国の史跡に指定。

公園として整備をされたのは、平成10年(1988)だそうです。

 

「貝塚」は、弥生時代前期のもの。

 

弥生時代前期の遺構では、幅4から5メートルの溝が、数条、発掘され、溝の中から「ハイガイ」「ヤマトシジミ」「ハマグリ」「カキ」などの貝類、「イノシシ」「シカ」「タヌキ」、鳥、魚などの骨や、骨角器が、発見されているということ。

 

つまり、溝を掘って、そこを、ゴミ捨て場にしていたということなのでしょう。

 

また、「門田式」と呼ばれる、弥生時代後期の土器も発見されているそう。

 

住居後が発見されたのは、弥生時代中期の遺構だそうで、製塩が行われていたことも確認出来るそう。

 

奈良時代、平安時代の遺構からは、掘立柱建物の跡が確認されていて、大きな建物が存在していたよう。

焼き物の硯なども発見されていて、役所跡ではないかと思われるということ。

 

鎌倉時代の遺構からは、柱の跡や、井戸が確認されているそう。

また、多数の陶磁器も、見つかっているそうです。

 

岡山、貝塚で検索をすると、出て来るのが、岡山市灘崎の「彦崎貝塚」、瀬戸内市邑久の「門田貝塚」、笠岡市の「津雲貝塚」の3つのようで、この3つの貝塚が、この辺りでは、有名で、大きな貝塚ということになるのでしょう。

 

彦崎貝塚、津雲貝塚は、縄文時代のもの。

門田貝塚は、弥生時代のもの、と、言うことになる。

 

津雲貝塚にも、行ってみないと。