比叡山で、後醍醐天皇と決別した新田義貞は、その後、どうなったのか。

 

 

上の本、そして、少し、詳しく経緯を追いたいので、

 

 

この本も参考に、私見を交えながら、書きたいと思います。

 

新田義貞を切り捨てた後醍醐天皇は、足利尊氏と和睦。

足利尊氏は、後醍醐天皇に、相当、譲歩をしたようですが、建武3年(1336)12月21日、後醍醐天皇は、突如、吉野に逃亡します。

これは、皇位継承に、武家政権が関わることに反発をしたのだろうということ。

 

ちなみに、足利尊氏は、常に、後醍醐天皇との戦いは、出来るだけ避けたいと考えていたようで、戦う相手を、後醍醐天皇ではなく、「新田義貞」に絞ったもの、そのためでしょう。

そして、足利尊氏は、その後も、後醍醐天皇との交渉には、常に、大きく譲歩をしていたようですが、後醍醐天皇は、「武家」による政権というものを絶対的に認めず、「天皇」の親政を、常に、目標とし、絶対的に譲らなかったよう。

そのため、あくまでも「武家」による政権の維持を譲らない足利尊氏と、「天皇」の親政により、「武家」の権力を認めない後醍醐天皇との交渉は、常に、決裂に終わることになります。

 

さて、比叡山を下りた後醍醐天皇の動きに対して、新田義貞は、どう行動していたのか。

 

建武3年(1336)10月9日(または10日)、後醍醐天皇は、比叡山を下り、京都に。それに対して、新田義貞は、恒良親王、尊良親王と共に、越前国に向かいます。

新田義貞が率いる軍勢は、近江国堅田から、船で海津に渡り、敦賀へ。「太平記」と「梅松論」では、越前に向かうコースが異なり、どちらを信じるか。

「梅松論」では、荒芽山山中で、「太平記」では、木目峠で、新田義貞の一行は、猛烈な寒波に遭い、大きな被害を受けることになります。

10月13日、敦賀に到着。

 

この新田義貞の越前下向は、越前国が、弟の脇屋義助が国司、一族の堀口貞義が守護を務めていたため、そこを拠点にしようと考えたのだろうということ。

しかし、越前国の国府は、足利方の斯波高経が抑えていたため、新田義貞は、建武3年(1336)10月13日、気比社大宮司の気比氏治に迎えられて、敦賀に入ります。そして、新田義貞は、この気比社の裏に築かれた金ヶ崎城を拠点とする。

 

新田義貞は、脇屋義助を越前国府の手前にある杣山城に派遣。国府の攻略を目指す。

更に、義貞が建武政権で国司を務めた越後国に嫡男の新田義顕を派遣し、影響力の行使を目指す。当時、越後国府は、新田方が抑えていて、そこと連携を取るため。

新田義貞は、更に、陸奥国にも軍勢催促状を発給し、陸奥将軍府の北畠顕家に、京都への共同進軍を提案する。

 

新田義貞は、恒良親王を頂点とした地域政権の確立を目指したと思われる。

後醍醐天皇は、恒良親王に譲位をしたと言われますが、それが、事実なのかどうかは、不明。しかし、恒良親王と新田義貞は、恒良親王が即位をし、天皇となったことを前提にして行動しているのは史料から確認出来る。

敦賀の気比社では、恒良親王は「天皇」として迎えられたということ。

そして、恒良親王は、「天皇」として「綸旨」を発給し、軍勢催促を行うことに。

しかし、この恒良親王、新田義貞による東国への軍勢催促は、ほぼ、効果が無かったと思われるということ。

 

この時、恒良親王が「天皇」になったのかどうか。それは、後醍醐天皇が、以後も、「天皇」であり続けたことを見れば、後醍醐天皇が、恒良親王に「譲位をした」という認識が無かったことは、確かでしょう。

しかし、新田義貞は、恒良親王を「天皇」として扱い、恒良親王も「天皇」として振る舞っていた。

という、客観的な事実は、分かるようです。

 

新田義貞が、恒良親王を「天皇」として擁立したのは、後醍醐天皇と対立をした足利尊氏が、北朝の天皇を擁立したのと、構図としては同じ。しかし、新田義貞の配下には、政権運営の実務、幕府制度の運用を担う幕府奉行人の姿がなく、実質的に、政権の確立は、困難だったと思われるということ。

また、越前国府を抑えられていないということも、越前国に、政治的影響力を及ぼすには、限界があった原因となるようです。

 

後醍醐天皇と再び、対立をすることになった足利尊氏は、まず、恒良親王(天皇)を擁する新田義貞の討伐に全力を挙げることになります。

これには、後醍醐天皇と、再び、和睦をすることを目指す尊氏が、恒良親王(天皇)の存在を、まず、潰しておくことを考えたためと思われる。更に、新田義貞が抑えた敦賀は、北陸方面から来る年貢を京都に送るための港だったそうで、敦賀からの物流が止まることを懸念したのだろうということ。

 

「足利氏と新田氏」によれば、実は、この足利尊氏による「北陸攻め」は、「太平記」では、かなり大がかりで、全力を挙げたように書かれていますが、一次史料からは、違った様相が見えるということ。

どうも、足利尊氏は、この「北陸攻め」では、広く、全国に軍事動員をかけることはせず、当時、京都に居た武士たちを動員して、北陸、金ヶ崎に向かわせたようです。

実は、この状況は、足利尊氏が、北陸の情勢を軽視していた訳ではなく、全国的に南朝との戦いが続き、大規模な軍事動員が不可能な状況だったということ、更に、より、迅速な北陸攻略を目指したため、とにかく、在京の武士を集めて、出陣させたのだろうということのようです。

 

しかし、「新田義貞」によれば、足利尊氏の軍勢催促は、やはり、諸国に広く、行われたようです。

足利尊氏は、信濃国、越後国に、軍事動員をかける。

それは、九州や、山陰の武士にも送られたことが確認出来るよう。

尊氏が、信濃国の武士に、新田義貞討伐の御教書を発給したのは、10月12日。

まだ、新田義貞が、敦賀に入る前のこと。

10月17日の尊氏の書状からは、まだ、新田義貞の行方をつかめていない様子のようです。

 

建武3年(1336)12月、京都を脱出した後醍醐天皇は、吉野に入る。

翌年1月8日、陸奥国に居た北畠顕家が、上洛のための軍事行動を開始します。

1月25日、北畠顕家が発給した文書から、新田義貞が、前年の12月頃、北畠顕家に、上洛を促す書状を出していたことがうかがわれるということ。しかし、この時点で、新田義貞に上洛の動きが無いことに落胆をしている様子だということ。

 

建武4年(1337)1月1日、足利方の軍勢が、金ヶ崎城の攻撃を開始。すでに、昨年の12月には、広く、軍勢の催促が行われていたようです。

この金ヶ崎城の攻撃の指揮を取ったのは、斯波高経ではなく、京都から派遣された高師泰。1月18日、金ヶ崎城の大手口で、戦闘。

2月には、新田軍が、反撃に出ます。しかし、足利軍も、更に、大規模な軍事動員をかけ、金ヶ崎城を攻撃します。

3月に入ると、足利軍は、連日、金ヶ崎城の攻撃を続けます。

3月6日、金ヶ崎城は、陥落します。

恒良親王は捕らえられ、新田義顕、尊良親王は、自害。しかし、新田義貞は、脇屋義助の居る杣山城に移動していたため、無事でした。

新田義貞が、杣山城に居たのは、援軍を求めるためだったと思われます。

 

実は、この時、足利方は、新田義貞もまた、この金ヶ崎城で戦死したと思っていたようです。

足利尊氏は、どうも、新田義貞の存在よりも、恒良親王(天皇)の存在を重視していたようで、恒良親王を奪い返した後、新田義貞の存命を知っても、これまでのように全力で対処をしようという姿勢は、見られない。

その後の越前国での新田義貞への対処は、斯波高経に任せていたようです。

 

ここに、足利尊氏が、新田義貞という人物を、どのようにとらえていたのかが分かるように思います。

つまり、やはり、足利尊氏は、新田義貞を、自分と対等な立場の人物だとは思っていなかったということでしょう。

恒良親王を失った新田義貞は、足利尊氏にとっては、地方の反対勢力の一人に過ぎなかったということ。

 

恒良親王(天皇)を失った新田義貞ですが、3月14日、越後国で、軍事活動を再開。

更に、越前国でも、再び、軍事活動を再開させますが、足利尊氏は、それに対して、斯波高経を越前守護に任命し、新田義貞の動きに対抗します。

4月には、越後国で、新田方は、足利方に対して、有利に戦況を進めていたよう。

 

ちなみに、この斯波高経は、建武元年(1333)9月には、すでに、越前国で足利方として活動をしている。そして、建武4年(1337)6月には、守護としての活動が確認出来るということ。

斯波高経は、越前国府を城塞化して、軍事拠点としていたようです。

当初、新田義貞が、越前国府に入ることを避けたのは、そのため。

 

建武5年(1338)1月、上洛を目指す北畠顕家軍は、美濃国で、足利方の高師直、師泰軍と戦闘。新田義貞の次男、新田義興は、父の義貞、兄の義顕と行動を共にせず、上野国新田荘に居たようで、上洛をする北畠顕家軍に参加をしていたと言われています。

 

2月、新田義貞は、斯波高経を破って、越前国府を攻略。

4月、新田義貞は、金ヶ崎城を奪還。

 

新田義貞は、越前国で、斯波高経を相手に、優位に戦いを進めていたよう。

 

一方、5月22日、奈良から摂津方面に抜けた北畠顕家軍は、高師直軍と和泉堺で戦い、北畠顕家が戦死。

 

この、北畠顕家による、陸奥国から京都への軍事侵攻ですが、新田義貞は、これと合流することは無かった。と、言うよりも、戦況からして、共同作戦を取ることは、なかなか、難しかったのではないでしょうか。

 

越前国で、斯波高経を相手に、有利な戦いを勧めていた新田義貞でしたが、閏7月2日、吉田郡藤島荘で、戦死します。

 

「太平記」によれば、新田義貞は、杣山城、越前国府を拠点に、足羽、黒丸への攻撃を繰り返しているそう。その中で、藤島城に籠る平泉衆徒の攻撃に向かう途中、黒丸城から出撃した斯波方の軍勢と遭遇。深田によって自由な動きの効かない新田義貞は、雑兵の弓に討たれ、馬ごと倒れたところを、越中住人の氏家重国によって討ち取られることになる。

 

この「太平記」の記述は、新田義貞の最期を記した史料が少なく、正しいものかどうか、検証は難しいということのようです。

 

新田義貞が、討幕のために挙兵をしたのが、1333年。

そして、越前国で戦死をしたのが、1338年。

その間、たったの5年ということになる。

出生の年が、明らかではないので、正確な年齢は、不明ですが、戦死をした時に、42歳くらいだったようです。

 

一体、新田義貞は、この激動の運命の中で、何を考えて、行動をしていたのでしょう。

本来ならば、雲の上の存在だった、武家の棟梁、足利尊氏と肩を並べるような立場に、一時的にでも、立てたことは、武士としては、本望だったということになるのでしょうかね。