今日もまた、ネットの記事を見ていると、プロ野球選手の不倫の記事が。

これほど、何度も、大騒ぎになっても、不倫というものは、無くなりませんね。

もっとも、プロ野球選手の不倫なら、芸能人ほど、大騒ぎにもならないし、多方面に影響がある訳でもないのでしょうが。

 

何で、不倫は、無くならないのでしょうね。

やはり、異性が好きな人というのは、結婚をしたパートナー、一人だけでは、我慢が出来ないということなのでしょうかね。

 

しかし、この「不倫」というものが、大きく騒がれるようになったのは、つい最近のことで、ほんの数十年前までは、有名芸能人の不倫など、それほど、話題になることでもなく、当たり前のことだったのでしょう。

そして、そもそも、不倫というものは、夫婦の問題で、第三者が騒ぐようなことではないものとも思いますが。

 

さて、これまで、色々と本を読んでいると、かつて、日本の社会では、男女関係というものに、かなり寛容で、複数の異性と関係を持つのも、当たり前のようなイメージがあり、不倫などと言うものも、それほど、問題にはならないものと、勝手に、思っていたのですが、どうも、そうでは無かったようです。

以下、この本から。

 

 

弘長3年(1263)4月、今の兵庫県西宮市にある広田神社に、18箇条の刑事法令が、神祇官から送られて来たそうです。

この法令の中に、今で言う「不倫」についての罰則が記されたものがあるそうです。

 

夫のある妻が不倫をした場合。

 

男女合意の和姦であるなら、男女双方から、一貫文ずつ。

もし、男による強姦ならば、男から二貫文。

また、女の方から持ちかけた場合、男が無罪で、女から二貫文。

 

もし、夫が、それでも、憤懣遣る方ないというのなら、神祇官の許可を得た上で、男女から、それぞれ、三貫文ずつ。(これは、この法令以前から、その土地で決められていた罰則だったようです)

 

実は、この弘長3年に出された法令は、それまで、その土地で、住民たちに厳しい罰則が科されていた慣習を、住民たちのために緩和をしてやろうという意図で、出されたものだそうです。

これもまた、いわゆる、民のことを考えた「徳政」の一つ。

この18箇条の法令は、「撫民」のために、出されたもの。

 

ちなみに、この不倫が、「親告罪」であることは、現代と同じ。

しかし、中世では、そもそも、刑事事件の全てが、親告罪だったそうです。

つまり、何があっても、被害者が、親告をしなければ、相手は、罪に問われなかった。

 

かつて、日本の社会の中には、その地域、その地域で、住民たちの間で守られていた「慣習法」がありました。

この「慣習法」に対しては、例え、身分の高い人、偉い人でも、外部の人は、容易に、手を出すことは出来なかったようです。

 

もう一つ、例として挙げられていたのが、「夜、他人の田の稲を刈る」者への処罰。

 

刈ったのが、一束以内なら、その同額を弁済する。

一束を刈った者には、三束を徴収する。

二束以上刈った者、また、再犯の者は、刈り取った額に比例する日数だけの拘禁刑を科す。

 

この「夜、他人の田の稲を刈る」という行為には、単なる窃盗とは違い、土地の慣習法で、かなり厳しい罰則が科せられていたようです。

 

恐らく、それは、「死罪」だったと思われる。

 

この「中世」という日本の社会では、「昼」と「夜」では、別の常識が、社会を支配していたようです。

しかし、それはまた、別の話。