さて、この本から。
弘安8年(1285)、石清水一社に向けて、7箇条の法令が出されているそうです。
これは、後嵯峨院政が、制定した「弘安八年法」と、同日に、出されたもの。
これは、王権による寺院統制の一環として出されたもので、その中に、このような法令があります。
「近年、石清水の神人らは、神威を振りかざして、諸国の荘園を煩わし、また、公道を往来する者から荷物を取り上げ、抵抗すれば、殺人さえも辞さない。かかる者は、神人を罷免し、官に告発せよ。厳罰に処するであろう」
中世には、天皇や摂関家、寺院、神社に奉仕し、その代償として権門から、何らかの特権を与えられている職能集団が、多数、存在していました。
このうち、神社に奉仕する一団が「神人」と呼ばれる人たち。
さて、上に挙げた法令の一文の中で、なぜ、神人が、諸国の荘園や公道で、人の荷物を取り上げ、時によっては、殺人まで犯したのか。
実は、この神人の行為は「寄沙汰」と呼ばれる行為だったそうです。
この「寄沙汰」とは、今で言えば「借金取り」ということになる。
例えば、借金を取り立てたい者が、その行為を第三者に委託することを「沙汰を寄せる」と言い、委託を受け、それを、受諾することを「沙汰を請け取る」と言ったそうです。
実は、この時、「沙汰を請け取った」者は、基本的には、裁判で、それを争うことになります。
そして、「沙汰を請け取った」者は、裁判に勝訴をすれが、それなりの報償を受け取る契約になっているのが普通。
つまり、裁判を有利に進めることが出来そうな人に、債権者は「沙汰を寄せる」ことになる。
しかし、上に挙げた法令の神人の行為は、それとは別物です。
いわば、現代社会で、悪質な金融業者が、暴力団に借金取りを任せるのと同じこと。
実は、この「暴力的な借金取り」を行っていたのは、「神人」だけではありません。
他には、寺院に所属する「山僧」と呼ばれる人たちや、「山伏」なども、同じような行為を行っていたそうです。
なぜ、神仏に仕えるはずの「神人」「山僧」「山伏」らが、強引な「寄沙汰」を行ったのか。
それは、強引な債権の取り立てという行為に「これは、神仏のものだ」という大義名分が付けやすかったから。
更に、「神人」「山僧」「山伏」たちは、地域を問わず、広範囲に行動をすることが可能だったというのも、理由だそうです。
「不知行所領の寄進を請けた」という名目で、沙汰を請け取り、「神物」「仏物」という名目で、荘園を荒らす。
一般の民家に押し入って、債権を取り立てる。
運送途上の年貢を差し押さえる。
などなど。
都市、農村、公道、水路、あらゆる場所で、傍若無人な、借金の取り立てが行われていたそうです。
なぜ、このような、強引な借金の取り立てが行われていたのでしょう。
それは、中世の社会では、「自力救済」が、原則だったから、と、言うことになる。
都市部では、裁判をすることも出来たでしょうが、都市部を離れれば、そうは行かない場合が多い。
また、中世の社会では、貨幣経済も発達し、都市部でない地域でも、経済活動が活発になって来る。
当然、当時の裁判制度から漏れるケースは、多発することになる訳で、そこで、「寄沙汰」が、増加をすることになる。
実は、この「寄沙汰」への対処もまた、当時の公家、幕府の大きな問題だったようで、それもまた、上の本の主題である「徳政」に繋がって行くことになります。