大河ドラマ「光る君へ」のラストシーン。

 

伊藤健太郎さん演じる「双寿丸」という武者と、その従者たちが、馬に乗り、旅をしている主人公「まひろ」と遭遇する。

そして、双寿丸は、まひろに「東国で戦が始まった。自分は、朝廷軍として、東国に行く」と告げて、その場を去って行く。

まひろは、それを見送りながら「嵐が来るわ」とつぶやき、ドラマは、終わりを迎えた。

まるで、あの映画「ターミネーター」を思わせるラストシーン。

公家による支配が終わり、武家が世の中を支配する戦乱の世が近づいていることを思わせる演出でした。

 

さて、この時、双寿丸が話した「東国の戦」とは、「平忠常の乱」のことと思われます。

藤原道長が亡くなったのが、万寿4年(1027)。

その翌年である長元元年(1028)に、関東で勃発をしたのが、「平忠常の乱」です。

 

この「平忠常の乱」は、先に起こった「平将門の乱」や、後に起こる「前九年・後三年の役」に比べると、知名度が低く、経緯を詳しくしっている人も少ないのではないでしょうか。

以下、ウィキペディアから、経緯を見てみます。

 

この「平忠常の乱」は、上総国、下総国、安房国の房総三カ国で起こった反乱です。この反乱を起した「平忠常」という人物は、平将門の伯父、平良文の孫に当たる。

平忠常は、房総三カ国に広大な領地を持っていたそうです。

 

長元元年(1028)6月、平忠常は、安房守だった平維忠を殺害します。その原因は不明ということですが、受領である平維忠と、在地領主の平忠常が、利害関係から対立をするのは、自然の流れでしょう。

更に、平忠常は、上総国の国衙を占領。多くの国人が、平忠常に加担をすることになり、反乱は、大規模化することになる。

 

この時、朝廷から追討使として、反乱鎮圧に派遣をされたのが、中原成通と平直方です。

平直方は、貞盛流平氏の嫡流で、同じ貞盛流の常陸平氏と連携。この常陸平氏は、平忠常の良文流平氏とは対立関係にあったそう。

平直方は、関白、藤原頼通の家人であり、頼通に働きかけて、追討使に任命されたと思われます。

 

8月、追討軍は、京都を出陣。

しかし、中原成通は、どうも、この追討使の仕事に積極的ではなかったようで、平直方との関係も悪く、関東での戦いは、遅々として進まなかったよう。

長元2年(1029)12月、中原成通は、解任されます。

 

長元3年(1030)3月、平忠常は、安房国の国衙を襲撃し、安房守、藤原光業を追放。

平忠常は、上総国夷隅郡の要害に立てこもり、抵抗を続けます。

 

7月、朝廷は、平直方を京都に召還し、9月、甲斐守の源頼信を追討使に任命し、関東に派遣。平忠常は、戦うことなく、源頼信に降伏します。

 

6月、平忠常は、源頼信と共に、京都に向かう途中、美濃国で病死。源頼信は、平忠常に首を持って、京都に戻ります。

 

以上が、「平忠常の乱」の経緯です。

 

平直方の率いる追討軍に、頑強に、抵抗を続けた平忠常が、なぜ、源頼信には、戦わずに降伏をしたのか。

一つは、平忠常が、源頼信の家人であったこと。

一つは、長元3年には、大飢饉があったそうで、関東では、戦闘を続けられる状況ではなかったと思われるよう。

 

さて、この「平直方」という人物。

 

摂関家の藤原頼通の家人で、鎌倉に所領を得て、関東の本拠地としたそうです。

貞盛流平氏の嫡流で、桓武平氏の当主ということになる。

実は、「平忠常の乱」は、貞盛流平氏の平直方、良文流平氏の平忠常の平氏一族の私闘という面があり、中原成通が、平忠常の討伐に積極的ではなかったのも、それが一因と思われ、また、平忠常が平直方に頑強に抵抗したもの、それが一因でしょう。

 

一方、「源頼信」について。

 

源頼信は、源満仲の三男で、「河内源氏」の祖となる人物。

関白、藤原道兼に仕え、その後、藤原道長に仕える。

長元元年(1028)に上野介となってから、着々と関東に足場を固め、その数年前、常陸介だった時に、平忠常を屈服させ、平忠常は、源頼信の家人となったようです。

 

この源頼信の嫡男、源頼義は、平直方の娘と結婚します。

そして、源頼義と、平直方の娘との間に生まれたのが、源義家。

こうして、「河内源氏」は、「武家の棟梁」の家柄となり、平直方の影響の強かった板東平氏の勢力を、支配下に入れることになります。

 

更に、平直方の支配地だった鎌倉を譲り受け、以後、鎌倉は、河内源氏の関東での拠点となる。

 

平安時代、「平将門の乱」「平忠常の乱」と、関東では、桓武平氏の一族による「私闘」とも言える大規模な反乱が、続いて起こります。

この経緯を見ても分かるように、当時、関東は、「桓武平氏」の勢力圏でした。

 

しかし、清和源氏の中でも、「河内源氏」と呼ばれる源頼信が、この「平忠常の乱」を平定したことで、大きく、状況が変化をします。

 

源頼信は、一躍、武家としての名声を挙げ、清和源氏の中では嫡流と言える「摂津源氏」を越えて、「武家の棟梁」としての資格を得ることになります。

 

更に、「河内源氏」の当主、源頼信は、桓武平氏の嫡流の当主に当たる、平直方の娘を、嫡男の源頼義の正妻に迎えることで、それまで、桓武平氏の勢力圏だった関東に、大きな影響力を及ぼすようになる。

そして、同時に、平直方から、関東の拠点だった「鎌倉」を譲り受けることで、源頼信は、関東での本拠地を得ることになる。

 

ここに清和源氏の中でも「河内源氏」の当主が、「武家の棟梁」となり、「関東」「東国」を勢力圏に置く、その後の基礎が生まれることになります。

 

 

その「武家の棟梁」とは、どのようなもので、どのような経緯で生まれたのか。

上の本に、書かれています。

 

そして、桓武平氏の嫡流の血統と、河内源氏の嫡流の血統を受け継いで、誕生したのが「源義家」です。

 

まさに、「源義家」は、「武家の棟梁」となるべく、必然的に、誕生をした存在だったと言える。

 

この「武家の棟梁」の家となった「河内源氏」の当主が、その後、どういう経緯をたどり、鎌倉幕府を開く源頼朝に続くのか。

それは、また、別の機会に。