羽島貝塚の地表に貝殻が転がっているのなら、近隣では最大級(西日本でも最大級ということ)の彦崎貝塚の地表にも貝殻が転がっているのだろうと思い、行ってみました。
前回、彦崎貝塚を訪れた時には、近くに人が居て、不審そうに、こちらをチラチラと見ていたので、敷地の中に入るのは、控えたんですよね。
マルナカ彦崎店から、しばらく歩き、彦崎貝塚に到着。
前回は、この道から、敷地を眺めただけ。
こちら、説明版です。
こちらは、敷地の中にある注意書きです。
発掘や、遺物の持ち出しは、文化財保護法によって禁止されているということです。
やはり、貝殻の持ち出しも、禁止、と、言うことになるのでしょう。
やはり、ありましたね。
足下を見ながら歩いていると、貝殻が、ぽろぽろと。
これが、何千年も前に、縄文の人たちが捨てたもの。
今回は、敷地の中央にある「彦崎貝塚」と書かれた石碑にも近づいてみました。
石碑の前には、拾われた貝殻が置かれていました。
貝塚の西にある丘の風景。
この彦崎貝塚は、縄文時代の前期(約6000年前)から晩期(約3000年前)にかけて形成されたもの。
この縄文時代、人々は、何を食べていたのか。
ネットで調べてみる。
縄文時代、食べ物を捨てた場所として「貝塚」が知られていますが、そこで、大量の「貝殻」が残っていることで、一見すると、縄文人は、「貝」を主食にしていたのかと思う人も多いのかも知れない。
しかし、それは、誤解です。
縄文人は、恐らく、ドングリやクリなどの木の実や山芋などの根茎類を主食とし、魚や獣の肉を、補完的に食べていたのではないかと考えられるようです。
貝というものは、食べられる部分が少なく、カロリー摂取という面では、非効率的で、主食ではなかったと思われるよう。
しかし、貝の食べ残しである貝殻は、分解されずに、後世に残る。
そのため、大量の貝殻が残り、「貝塚」となったということ。
ドングリなどは、アク抜きをして食べていたようですね。
木の実はもちろん、獣の肉や魚などもまた、干したり、蒸したりして、保存出来るようにしていたということ。
残された縄文人の骨を見ると、結構、栄養のバランスの取れた食事をしていたと考えられるそうです。
ちなにみ、獣の肉に、木の実を混ぜ、野鳥の卵の入れた焼いた「ハンバーグ」のようなものも食べていたとか。
また、果実から作ったお酒も飲んでいたようです。
ちなみに、彦崎貝塚から発掘された人骨の調査では、平均寿命は30歳くらいだったと考えられるそう。
それが、恐らく、自然の中で生きる人間としては、普通ということになるのでしょうかね。