今日は、少し前まで、雨予報だったのが、曇りに変わっていたので、雨が降らないのならと、「磯の森貝塚」を見に、出かけて見ました。
この「磯の森貝塚」は、ネットの地図では、倉敷市粒江にある「船元貝塚」から、東に、少し、離れたところ。
しかし、周辺をしばらく、歩き回ったのですが、何も、看板を見つけることが出来ず、場所の確認は、出来ませんでした。
他の人のページには、説明版の写真が載せられているのですが、撤去されてしまったのか、それとも、僕が思っているのと、違う場所にあるのか。
ここは、「磯の森貝塚」があると思われる地図の場所から、少し、南の田んぼの風景です。
藁を干すために木組みがあり、まだ、藁も、少し、残されていますね。
残念ながら、帰ろうと思って、歩いていると、別の史跡を発見しました。
それは、源平合戦「藤戸の戦い」の関連遺跡「鞭木」です。
道から、少し、住宅地の奥に入ると、小さな公園があり、このような、お堂と石塔がありました。
やや、右に、視線を移すと、石仏と、「鞭木」の史跡を示す標柱があります。
お堂の右手に、やや大きな石仏、左手に、小さな石仏があります。
小さな石仏の方が、かなり古いもののよう。
こちら、標柱です。
新しく、作り直されたもののようで、「令和三年十月」の文字が。
さて、そもそも、この「鞭木」とは、何か。
粒江に陣を置いた平家の軍勢に向かって、源氏の武士、佐々木盛綱は、藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家軍に攻撃をかける訳ですが、その途中に、少し、高くなっていた、この地で、少し、休憩をしたそうです。
その時、佐々木盛綱は、この地に「鞭」を差し、そのまま、先に進んだということ。
この時、佐々木盛綱が「鞭」にしていたのは「クマヤナギ」という木で、この鞭が、芽吹いて、木になったそう。
そのため、この土地が「鞭木」と呼ばれるようになったそうです。
この「クマヤナギ」は、その後、枯れてしまい、後には、「ムクノキ」と「エノキ」が育ったそうですが、それもまた、枯れてしまい、その木を材料にして、佐々木盛綱の木造が作られ、それは、今でも、藤戸寺に、保管されているそうです。
公園には、このような、鳥居、社、地神もありました。
この「鞭木」の近くには、このような、古い常夜灯があります。
この常夜灯は、車道沿いにあるので、よく目立ちます。
「天保十一年」の年号が、ありました。
この道が、古くからの街道だった証拠でしょう。
近くには、このような、お堂と、地神があります。
この「鞭木」を通り、「先陣庵」と呼ばれる場所に、佐々木盛綱は、上陸したそうです。
そこにもまた、そのうちに、行ってみないと。