鎌倉幕府、得宗、北条高時の遺児、時行が信濃国で挙兵し、鎌倉落とした「中先代の乱」。

足利尊氏は、後醍醐天皇の許可が無いまま、京都を出陣。鎌倉を奪還し、そのまま、後醍醐天皇の帰還命令を拒否して、鎌倉に留まります。

そして、足利尊氏、直義は、「新田義貞追討」を名目に、後醍醐天皇と戦うことを決意。

後醍醐天皇は、新田義貞を大将に、足利尊氏の追討を決断します。

以下、この本を中心に、他の本から得た知識と、私見を元に、新田義貞と足利尊氏の戦いの経緯を追います。

 

 

建武2年(1335)11月18日、京都の内裏で、出陣の儀式が行われ、後醍醐天皇から節刀を与えられた新田義貞は、京都を出陣します。

 

この時、新田義貞は、何を考えていたのでしょう。

 

これまで、「足利家の一門」であり、足利尊氏の元で行動をしていた新田義貞。

しかし、その足利尊氏から追討の対象とされ、後醍醐天皇から、その足利尊氏追討の大将に任命された。

恐らく、新田義貞は、「自分が、足利尊氏に代わり、『武家の棟梁』として、武士のトップに立つことが出来るかも知れない」と、思ったのではないでしょうか。

これは、自分にとって、大きなチャンスではないかと。

 

新田義貞は、これまでに見て来たように、血統としては、足利尊氏と並ぶ、清和源氏の名門と言える。

しかし、鎌倉時代を通じて、新田氏は、次第に、地位を低下させ、逆に、地位を次第に向上させた足利氏の一門に吸収されることになってしまった。

この歴史の経緯は、当然、理解をしていたはずで、今回のことは、立場を逆転させる、大きな機会と捉えたかも。

 

新田義貞が率いる後醍醐天皇の軍は、東海道を東に進軍。

そして、11月25日、三河国矢作宿に本陣を構えた足利方、高師泰の軍に、新田義貞軍が、攻撃を開始。ついに、新田義貞、足利尊氏の対決が始まります。

高師泰は、新田義貞軍に敗れ、敗走。高師泰は、遠江国国府で、再び、新田義貞軍と戦うが、ここでも敗走する。

足利直義は、矢作宿での敗戦を知り、鎌倉を出陣。駿河国手越河原で、新田義貞軍を迎え撃つが、ここでも、新田義貞軍に敗戦。新田義貞軍は、伊豆国国府まで進出。

足利直義は、伊豆国国府と箱根峠の中間、水呑に要害を築き、立てこもる。

 

ここまで、新田義貞は、足利軍を、順調に、打ち破ります。

これは、恐らく、総大将である足利尊氏が、戦う意思を見せないことで、足利軍の武士の士気が、上がらなかったのだろうと想像します。

 

12日8日、ここで、ようやく、足利直義の危機を知った足利尊氏が、鎌倉を出陣。

12月11日、足利尊氏軍は、足柄峠を越え、竹之下へ進むと、新田義貞方の脇屋義助軍と遭遇し、これを破る。

脇屋義助軍の敗退を知った新田義貞は、水呑での足利直義の攻撃を切り上げて、伊豆国国府に撤退。足利尊氏、直義の軍を待ち受けるが、敗北。

12月13日、これまで、足利方の軍勢催促状は、直義が発給していたが、この日から、尊氏も発給するようになる。

 

新田義貞軍は、京都まで撤退。宇治、瀬田、山崎、大渡に軍勢を配置し、足利軍を待ち受ける。

建武3年(1336)1月9日、足利軍は、新田軍への攻撃を開始。大渡、山崎を突破し、11日、京都に入る。後醍醐天皇は、東坂本の日吉社に退避。

 

後醍醐軍を率いる新田義貞は、足利尊氏軍が、東海道を攻め登るのを食い止めることが出来なかった。

これは、新田義貞個人の武将としての資質というよりも、建武政権の制度に問題があったと思われます。

これについては、直後に、触れます。

 

1月末、陸奥国から北畠顕家が軍勢を率いて上洛。新田義貞は、これと合流し、足利方の園城寺を攻め落とすと、京都に入り、足利軍を打ち破る。

足利尊氏は、丹波国に脱出。後醍醐天皇は、京都に戻る。

足利尊氏は、摂津国に入り、体勢を立て直すが、2月11日、北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの軍勢に豊島河原で敗れ、九州に敗走。

 

この豊島河原の合戦の直前、2月8日、新田義貞は、播磨国明石郡近江寺に、軍勢催促状を発給している。これが、新田義貞による軍勢催促状の初見だということ。

実は、後醍醐天皇方の軍勢催促、恩賞給付は、後醍醐天皇の専権事項で(陸奥将軍府の北畠顕家を除く)、これまで、新田義貞は、軍勢催促が出来なかったと思われる。

そのため、新田義貞は、鎌倉から、京都を目指す、足利軍を食い止めることが出来なかった。

恐らく、この時の教訓から、新田義貞は、後醍醐天皇から軍勢催促の許可を貰ったと考えられる。

 

つまり、新田義貞には、兵士を集めるための「軍勢催促」の権限も無ければ、集まって、戦った兵士に「恩賞給付」をする権限も無かった。

これでは、配下の軍勢、兵士の士気が上がる訳もなく、一度の敗戦で、あっという間に、京都まで撤退しなければならなかったのも当然でしょう。

しかし足利尊氏は、「軍勢催促」も「恩賞給付」も、自らの権限で行うことが出来た。当然、武士たちの多くは、新田義貞ではなく、足利尊氏を支持し、懸命に、足利軍として戦うことになる。

新田義貞が、足利尊氏に対して、圧倒的に不利な立場に居たのは、否めない。

 

新田義貞は、九州に逃走する足利尊氏を追撃するために、中国地方に、広く、軍勢催促状を発給したと思われる。

しかし、足利尊氏は、九州の敗走する中、現地の武士たちに「元弘没収地返付令」を出し、建武政権に没収された領地の返還を約束することで、新田義貞の軍勢催促を阻止。このため、多くの武士が、足利方につくことになる。

 

同時に、足利尊氏は、光厳上皇から「新田義貞追討」の院宣を獲得する。

これで、新田義貞は、持明院統から、正式に追討の対象とされ、後醍醐天皇から追討を受ける足利尊氏は、新田義貞と対等の立場となったと言える。

 

3月2日、九州で、多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、太宰府に入る。

1ヶ月ほど、太宰府に滞在し、九州の軍勢を集め、体勢を立て直した足利尊氏は、上洛を開始。

一方、新田義貞は、播磨国の白畑城で、赤松円心に苦戦をしていた。

足利尊氏の東上を知った新田義貞は、脇屋義助らを派遣。備中国福山で、戦闘となるが、脇屋義助軍は、足利尊氏に敗北。

新田義貞は、白旗城を落とすことを諦め、摂津国湊川に撤退。

 

この時、「太平記」によると、楠木正成は、後醍醐天皇に対して、「新田義貞を切り捨て、足利尊氏と和睦をするべきだ」と進言します。

果たして、これは、史実なのかどうか。

楠木正成が、こう主張をした根拠は、「足利尊氏には、多くの武士が従っているが、新田義貞には、人望が無い」というのが理由。

しかし、後醍醐天皇は、楠木正成の進言を拒否し、湊川に向かうことを命じます。

 

新田義貞に人望が無く、多くの武士が、足利尊氏に従っていたのは、先に見たように、新田義貞には「恩賞給付」の権限がなく、足利尊氏には、それがあったからに他ならない。

これを「人望」に結びつけるのは、筋が違う、と、思うところです。

 

3月25日、新田義貞は、湊川の戦いで、足利尊氏に敗北。楠木正成が戦死する。

後醍醐天皇は、比叡山に脱出。

 

6月14日、足利尊氏は、京都に入り、持明院統の光明天皇が即位。

10月、足利尊氏は、後醍醐天皇に、和睦を持ちかける。

11月2日、後醍醐天皇は、京都に戻り、三種の神器を、引き渡す。

 

実は、足利尊氏が再入京をし、比叡山の後醍醐天皇に和睦を持ちかけた時、後醍醐天皇は、先に、楠木正成が進言をした通り、新田義貞を切り捨てる決断をします。

「太平記」によれば、この後醍醐天皇の判断を知った、新田一族の堀口貞満が、比叡山の後醍醐天皇の元に行き、後醍醐天皇に、厳しく抗議をする様子が描かれています。これもまた、史実なのかどうか。

 

恐らく、この後醍醐天皇の判断は、新田義貞にとっては、「寝耳に水」の出来事で、相当にショックを受けたものと思われます。

 

そして、新田義貞は、後醍醐天皇との決別を決めます。

 

「太平記」では、後醍醐天皇は、堀口貞満の強い抗議を受け、新田義貞に、恒吉親王に譲位をした上で、恒吉親王を新田義貞に託し、越前国に向かうように指示したと描かれていますが、恐らく、これは、創作で、実際は、新田義貞が、後醍醐天皇に、恒吉親王に譲位をさせ、その新たな天皇と共に、北陸に向かうことを強制的に、後醍醐天皇に認めさせたものと考えられます。

 

そして、新田義貞は、最期の戦いのため、北陸に向かいます。