ネットで、貝殻山について、色々と調べてみると、やはり「貝殻山」という名前は、山頂から貝殻が発見されたために付けられたということ。
山頂東部に、貝塚、そして、住居跡が見つかり、弥生時代中期の頃のものだということ。
高校の日本史の授業で、先生が、貝殻山で見つけたものだと、土器片のようなものを見せてくれたことがあるんですよね。
今でも、貝殻、土器片、その他、当時のものが、地表に残っていないかと出かけてみることに。
こちら、山頂近くにある「三角点」です。
南方面を見る。
やはり、木が茂り、見晴らしが悪いのが、難点。
こちらは、展望台。
少し、視界が開けますが、やはり、十分ではない感じです。
もったいない。
こちら、南東方面。
この説明版に、貝殻山の名前は、山頂から貝殻が発見されたことから付けられたということ。この山頂周辺で、いくつか、弥生時代の遺跡が発見されたこと、などが、記されています。
さて、山頂から、少し、東へ。
こちら、山頂、東部にある平面。
遺跡、貝塚があったというのは、この辺りでしょうかね。
確かではないので、分からない。
この先、斜面となり、住居があったとは、思えない感じ。
山頂方面を見る。
この東部辺り、そして、山頂付近を、しばらく、足下を見ながら、歩いてみたのですが、やはり、貝殻、土器片のようなものは、何も、見当たらなかった。
やはり、もう、地表には存在しないのか、それとも、場所が違うのか。
さて、ネットで、色々と見ていると、この貝殻山の山頂にあった高地性集落は、岡山方面に住んでいた人たちの作ったもので、「吉備の中海(穴海)」に入って来る船を監視していたのではないかということ。
狼煙などで、連絡を取っていた可能生がある。
また、倉敷市の種松山の山頂付近でも貝塚が見つかっているそうで、種松山の高地性集落と、貝殻山の高地性集落は、同じ勢力の人たちが作ったもので、互いに連携をしていたのではないかと推測をしていました。
さて、実際のところは、どうだったのでしょうね。