大河ドラマ「光る君へ」。
いよいよ、次回が、最終回ですね。
とっても、良い、大河ドラマでした。
まさか、この大河ドラマの中で、「刀伊の入寇」が、これほど、詳しく描かれるとは思わなかった。
てっきり、「九州で『刀伊の入寇』があり、太宰府で権帥の藤原隆家が、撃退しました」という、誰かのセリフ、または、ナレーションで、軽く、触れるだけと思っていたのですが、主人公の「まひろ」が、太宰府に旅をするという物語の流れを作り、しっかりと、「刀伊の入寇」が、描かれていましたね。
恐らく、この「刀伊の入寇」が、これほど詳しく、時代劇の中で登場をするのは、後にも、先にも、この一度だけのような気がする。
寛仁3年(1019)、対馬、壱岐を襲撃した「刀伊」(女真族)の一群が、九州の博多を襲撃。
当時、太宰府のトップ、権帥だった藤原隆家が、太宰府に所属をした武者、自身の直臣である武者、現地の武者たちを率いて、この「刀伊」の襲撃を、見事に、撃退することになる。
これは、太宰権帥として、善政を敷いて、現地の住民たちを掌握していた藤原隆家が、武将としても、素晴しい才能を発揮することが出来たのが、大きな要因です。
政治、軍事に、優れた才能を持った藤原隆家が、たまたま、その時、太宰府に居たというのが、日本にとっては、幸運だった。
もし、他の貴族が、太宰権帥だったとしたら、武者を統率し、「刀伊」を撃退することは、恐らく、不可能で、九州は、甚大な被害を受けていたのではないでしょうかね。
そして、京都の朝廷で、問題になったのは、藤原隆家、以下、「刀伊」と戦った者たちへの恩賞です。
以下、この本から。
「刀伊の入寇」で、活躍をした武者たちへの恩賞を、どうするのか。
6月29日、公卿会議が行われます。
そこで、勅符(勅命を諸国に下すための公文書)が発せられたのは4月18日。戦闘は、この勅府が到着する前に終了をしているので、恩賞は、不要だという主張が出ます。主張をしたのは、大納言の藤原公任、中納言の藤原行成ら。
しかし、藤原実資は「功があれば、賞を与えるのは当然である」と主張し、これが認められることになります。
この時、藤原実資が主張をした根拠は、「寛平六年新羅凶賊」の先例です。
この時、対馬に居た島司(国司に準じる地方官人)の文室善友が、新羅凶賊を撃退し、恩賞を与えられていて、この先例が、決め手となった。
実は、この二つの意見は、「法」の「原理、原則」を重視するのか、それとも、現実に応じて、柔軟に対応するのかという「法」の運用の違いということになる。
藤原公任、藤原行成は、前者で、藤原実資は、後者。
公家を中心とした「律令国家」では、「法」は、前者の思想で運用されます。
しかし、この「律令国家」が、「王朝国家」に変化をして行く中で、次第に、「法」の運用は、後者に移ることになる。
そして、この時、現地で活躍をした武者たちに恩賞として示されたのは、「所領」ではなく「官職」「位階」でした。
勲功者の一人、大蔵種材は、対馬守に補任されます。
藤原隆家配下の武者や、九州の住人系の武者たちへの恩賞もまた、官職だったと考えられます。
実は、「寛平六年新羅凶賊」で、実際に、戦闘に参加したのは、律令制の中で、徴兵をされた軍団兵士でした。
そして、文室善友は、その軍団兵士を率いて、職務として、敵と戦ったということになる。
しかし、「刀伊の入寇」で、戦闘をしたのは、自発的、能動的に集まった現地の武者たちです。
そして、恩賞は、個人の戦功によって、決まったようです。
つまり、いくつの敵の首を取ったか。そして、矢を、いくら、敵に命中させたか。
ここに、王朝国家への変化、そして、武士の誕生の萌芽を見ることが出来ます。