さて、この「徳政令」というもの。
学校の歴史の授業でも習いますよね。
以下、この本から。
少し、歴史に詳しい人ならば、有名な「永仁の徳政令」とは、一言で言えば、「借金を棒引きにする」ということを命令したもので、有名な「元寇」によって、御家人は、自腹を切って活躍をしたものの、十分な恩賞が無く、借金に困窮し、その困窮をする御家人たちの救済のために発行されたものということは、知っているでしょう。
そして、この「永仁の徳政令」は、社会の混乱を呼び、御家人の困窮も解決されず、最終的に、御家人たちの不満が高まり、鎌倉幕府が倒れることにつながったと認識しているはず。
しかし、今では、この認識は、間違いだったということになっています。
そもそも、「元寇」によって御家人が困窮をした結果、鎌倉幕府が滅びた、と、言う訳ではないというのが、現在の歴史の定説のようです。
どうも、「借金を棒引きにする」という「徳政令」というもの。
今の認識では、「そんな無茶なことを決めれば、金を貸す人が居なくなり、社会が滅茶苦茶になる」というイメージがあるのではないでしょうか。
以前、大河ドラマにもなった戦国時代の国衆の一人「井伊直虎」は、主家である今川家からの「徳政令」の実行命令に抵抗したということが、歴史の事実として残っていて、それは、大河ドラマが放映された時に言われていたのは、やはり「徳政令を実行すると、金を貸す人が困る。結果、金を貸そうという人が居なくなり、社会が混乱する。井伊直虎は、そのために『徳政令』を出せという命令に抵抗をした」と説明されていたはず。果たして、この現代人の認識は、正しいのか。
以上、少し、余談。
ちなみに、なぜ、「借金を棒引きにする」ための「法」が、「徳政」と呼ばれるのか。
それには、今、現代社会に住んでいる人たちの感覚と、中世、鎌倉時代の当時に生きていた人たちの感覚の間に、大きな違いがあったため、と、言うことになるようです。
実は、明治時代、すでに、この「徳政令」は、学者の間では、「借金を棒引きにする暴政であり、悪政である」と認識されていたようですね。
しかし、当時の人たちは、それを「徳政」と呼んだ。
それは、なぜか。
そこには、現代人の感覚にはない「元に戻る」という不思議な感覚があったようです。
この、中世の人々の中に存在をした、現代社会の人々の中には存在しない「元に戻る」という不思議な感覚を説明しようと思います。
さて、中世の時代、「天下の大法」、または、ただ「大法」と呼ばれるものがあったようです。
この「大法」とは、今で言えば、「誰もが、当たり前に知っている、社会の一般常識」とでも言えるもの。
一般に、幕府などが制定した「法」とは違い、自然に、社会の中に生まれ、延々と中世社会の中で、影響を持ち続けたもの。
「仏陀、人に帰らざるは、大法歴然」
「仏陀寄進の地、悔返すべからず」
などと言われた「大法」があります。
この「大法」が生まれる以前、「三宝の物を互用する罪」というものがあったそうで、「仏物」「法物」「僧物」の三つを「三宝」と言い、それを混同して使うことは、大きな罪と言われていたようです。
恐らく、この「三宝の物を互用する罪」は、最初は、「僧」たちが、「仏物」「法物」を私物化することを戒めるために生まれたものと思われます。
しかし、次第に、「仏物」「法物」は、自然と、「僧の私物」、つまり、「僧物」と同義になって行く。
この「三宝」が、全て、「僧物」、つまり、「僧の私物」のようになってしまったことで、新たな解釈が生まれます。
例えば「仏物」「法物」「僧物」を、一般の人間が盗んで使ったりすると、非常に大きな罪を背負うことになると世間では言われていたよう。
つまり、一般の人たちが、これらのものを「盗む」そして「勝手に私物化する」ということを強く禁止するために、僧たちが、新たに、生み出した解釈でしょう。
そして、それが、世間一般に浸透し、「天下の大法」となってしまった。
これは、「仏」に関してだけではなく「神」に関しても同じで、
「神明に寄附の物、悔返すべからず」
という言葉もあったよう。
これは、寺の僧と同じように、神社の神主たちが、生み出したものでしょう。
つまり、神仏に、一度、寄附、寄進をしたものは、二度と、一般の人の元には戻らないという「大法」が、中世には、存在した。
しかし、この「仏陀寄進の物、悔返すべからず」「神明に寄附の物、悔返すべからず」という「大法」が存在したということは、裏を返せば、「一度、神仏に寄進したものが、再び、世間一般の人の元に戻ることも多かった」ということになる。
そうでなければ、そもそも、この「大法」は、必要ない。
なぜ、一度、神仏に寄進されたものが、再び、一般の人の元に戻るのか。
それは、多くの場合、僧たちが、私腹を肥やすため。
もちろん、寺が、経済的に困窮し、やむにやまれず、と、言う場合もあったでしょう。
そして、寺社に寄進をする一般の人の側も、それを認識していて、「自分の寄進した物が、再び、一般の人の手に渡らないように」と、寄進先を「寺社」の名ではなく、その「本尊」にしている場合も、確認出来るということ。
また、自分が寄進をした土地が、再び、他人に売り渡されないように「売券」を廃棄し、土地の所有権の移転を困難にしようとした人のケースも確認出来るそうです。
また、当時、寺は、金貸しなども行っていました。
これもまた、本来は、人々が「神仏」に寄附、寄進をしたものを、僧が、一度、金に換え、それを、一般の人に貸して、利益を得ているということになる。
ちなみに、「三宝の互用」が、大きな罪に問われるということは、本来、「僧物」であるお金を借りた一般の人は、それを返却しなければ、重大な罪になるぞ、と、脅しているのと同じです。
しかし、とにかく、中世の社会には、「一度、神仏の物になったものは、二度と、一般の人の元には戻らない。戻してはいけない」という「大法」が、存在をしていました。
そして、この「一度、神仏の物になったものは、二度と、一般の人の元には戻らない」という「大法」と並び、もう一つ、「大法」が存在したそうです。
それは、「他人和与の物、悔返すべからず」というもの。
現代の言葉に直せば「他人に無償で与えたものは、二度と、取り返すことが出来ない」ということ。
なぜ、このような「大法」が生まれ、世間に広まったのか。
これは、どうも、よく分からない、と言うことになるようです。
しかし、この「他人和与の物、悔返すべからず」という「大法」が存在したということは、「仏陀寄進の地、悔返すべからず」「神明に寄附の物、悔返すべからず」と同じく、「他人に無償で与えた物が、再び、元の持ち主に戻る」ということが、往々にして、あったということになる。
つまり、無償で貰った物を、貰った人が、無償であげた人から「あげた物を返せ」と言われて、返さなければならないという状況を防ぐために生まれたと考えるのが自然でしょう。
そして、この「他人和与の物、悔返すべからず」という「大法」は、「仏陀寄進の物、悔返すべからず」という「大法」よりも、成立が古いということ。
よく考えれば、「他人和与の物」は、「仏陀寄進の物」と、基本的には、意味が同じで、「他人和与の物」の「大法」から「仏陀寄進の物」の「大法」に繋がるのもまた、自然のことでしょう。
平安時代の後期には、公家法の中に定着し、鎌倉時代の武士の間にも、定着することになります。
実は、この「他人和与の物、悔返すべからず」という「大法」は、武家の社会の中で、深刻な問題を引き起こすことになります。
そして、それは、あの「御成敗式目」の中の条文にも現れることになる訳ですが、ここでは、省きます。
ちなみに、本来、この「他人和与の物」は、元々、「動産」を対象としていたのですが、平安時代には、「不動産」、つまり「土地」が、その対象になり始める。
この「土地」の「和与」、つまり、「土地」の贈与、相続は、武家にとっては、非常に、大きな問題です。
この「武家」と「土地」について。
鎌倉時代、「武家」とは「土地」を領地として支配している。
武家は、代々、自分の支配する土地がある訳ですが、必ずしも、永遠に、その土地を支配し続けることが出来る訳ではない。
例えば、何か、罪を犯して、幕府に没収される。または、他人に売る、または、譲る。または、借金の担保にしていて、借金が返せずに、土地を奪われる。などなど。
実は、この「一度、他人に手に移った土地」は、更に、また、何かの事情で、別の人に所有権が移ることも、当然に、ある訳ですが、どうも、その「土地」は、「元々の持ち主は、自分、または、自分の家である」という意識が、延々と存在をしていたようですね。
この、本来の、その土地の持ち主のことを「本主」と言い、この「本主」が、一度、失った土地、つまり「本領」を取り戻すことが出来る可能性は、常に、存在をしていたようです。
例えば、ある武士が、何かの罪を犯して、幕府に「本領」を取り上げられた場合、その土地は、他の新たな武士に与えられる訳ですが、その新たな所有者である武士が、また、何かの罪を犯し、その土地を幕府が取り上げた場合、元々、その土地を「本領」として所有していた過去のある武士、または、その武士の子孫は、「その土地は、自分自身、または、自分の家の『本領』なので、返して欲しい」と、幕府に訴えることが出来たそうです。
なぜなら、自分、または、自分の家が、そもそも、その土地の持ち主だったから。
ここに、「元に戻る」という、中世の人たちの、今の現代社会の人には無い意識を見ることが出来る。
ちなみに、この「元に戻る」という感覚は、寺社の持つ領地にも適用されたようです。
先に挙げた「仏物」「法物」「僧物」の「三宝」は、区別をして、互用をしてはならないという考え。
この「三宝を互用してはならない」という考えは、なし崩し的に、「仏物」「法物」も、僧が、私用することになり、実質的に、区別が無くなってしまう訳で、次第に、「寺社の物」を、僧が、勝手に売却したりして、土地もまた、一般の人の元に流出をしてしまうことになる。
この、寺社の所領を、寺の別当や神主は、私物化し、流出してしう。そして、それが、一般の人の所有になってしまった。
それを「元に戻す」という政策も、鎌倉幕府、安達泰盛の時代に、行われたそうです。
そして、それは、「元寇」による影響を大きかった九州で、特に、強力に行われたそう。
ちなみに、この「元に戻す」ことを「興行」と言ったようです。
土地を、本来の持ち主に戻すことは「所領の興行」ということになる。
旧寺領、旧神社領で、売買、質入れによって、現在、「甲乙人」の手に帰しているものは、全て、「仏物」「神物」に戻すということ。
この「甲乙人」というのは、言い換えれば「無関係な第三者」ということになる。
そして、ポイントは、旧領は、「別当」「神主」に戻すのではなく「仏物」「神物」に戻すということ。
つまり、二度と、「仏物」「神物」を、勝手に、他者に流すことは許さない、と、言うことになる。
以上のように、中世の人たちには、物や土地には「本来の持ち主」が居て、一度、その「本来の持ち主」の手を離れたものが、「元に戻る」ということが、「当たり前のことだ」という意識が存在をしていたようです。
これが、「徳政令」に繋がることになる。
ちなみに、中世の当時、土地を支配、知行するためには、「器量」と「相伝」の、二つが必要だという考えがあったようですね。
つまり、この「器量」と「相伝」の二つが備わっていなければ、実際に、土地を支配、知行していても、「正当な」その土地の所有者とは、なかなか、認められなかったということのようです。
一つ目の「器量」とは「正当に、その土地を知行する資格」ということ。
具体的には、いかに力のある御家人でも、荘園の本家職や領家職にはなれないし、逆に、どんなに位の高い貴族でも、地頭職には就けない。
これが「器量」です。
もう一つの「相伝」とは、その土地を所有するための「由緒」ということになる。
つまり、「土地を本来の持ち主に返す」という「法」の根拠は、その土地を、今、現在、所有している「甲乙人」は、その「器量」も無ければ、「相伝」も無いので、「土地を、本来の持ち主に返せ」という理屈になる。
ちなみに、中世の民事訴訟の多くが、この「器量」と「相伝」の優劣を争うものだったそう。
今の時代、現代の社会に住む人からすれば、なかなか、厄介な感覚ですね。