ネットで、倉敷にある貝塚について、いくつか、調べていると、スーパー「ニシナ」羽島店の近くに、「羽島貝塚」という貝塚がありました。

 

この「羽島貝塚」は、小丘陵の北端に位置する縄文時代前期(約6000年前)を中心とする貝塚のようです。

当時、瀬戸内の海は、この辺りまで入り込んでいて、遺跡は入江をのぞむ砂州の上に立地をしていたと考えられるそうです。

大正時代以降、数回の調査が行われ、1920年の発掘調査では、人骨も、10数体、発見されているそうです。

この貝塚から出土した土器は、「羽島下層式」と呼ばれ、当時の瀬戸内を代表する土器形式として有名だそう。

貝塚自体は、縄文後期まで、使われていたということのようですね。

 

さて、倉敷考古館のページにも、この「羽島貝塚」に関する話がありました。

 

倉敷考古館が、館として、初めて発掘調査をしたのが、近くにあった、この「羽島貝塚」だったそうです。昭和26年のこと。

古くから知られた貝塚で、小字名は、「貝殻塚」と言っていたそう。

 

考古館の発掘調査では、すでに攪乱されていた部分が多く、人骨の出土はなく、貝殻の多い部分の上層辺りでは、縄文前期の中頃から後半以降の土器が出土したということ。

より下層では、貝殻を伴わず、砂浜を思わせる地層から土器片が発見されたということ。これが「羽島下層式土器」として、この辺りでは、縄文時代前期前半の標式になったということ。

 

今日、この「羽島貝塚」に行ってみようと思ったのは、現在、貝塚は埋められ、土地は児童公園になっているのですが、その地表に、今でも、貝殻が散在しているということだったので、それを見てみたいと思ったため。

 

事前に見た地図の記憶を頼りに、細い道を歩きます。

南には、小高い丘のような山。

恐らく、その山の付近まで、縄文時代には海が迫っていたということ。

この写真、左の道の先に、羽島貝塚は、あります。

 

道を歩いて行くと、右手に、想像よりも、かなり小さな公園がありました。

入口のところに、「羽島貝塚」の説明版があります。

 

ちなみに、説明版の隣には、大きなミカンのような実のなった木が。

 

こちらが、説明版です。

 

説明版を拡大。

 

公園の敷地は、一面、芝が植えられていて、地表の見える場所はなく、しばらく、中を歩いてみたのですが、やはり、貝殻は、ありそうにもない。

諦めて、帰ろうかと思ったのですが、敷地の端、芝の切れる僅かな場所に、もしかすると貝殻が残っていないかと、探してみることに。

 

すると、ありました。

貝殻が、地表に転がっている。

 

いくつか、拾って、分かりやすいように、マットのようなものの上に乗せてみました。

 

右と左は、貝殻でしょう。

そして、真ん中のものは、カキの殻のようです。

 

これが、何千年も前に、ここで生活をしていた人が捨てたものかと思うと、なかなか、面白い。

 

かつて、ここが「貝殻塚」と呼ばれていたということは、昔から、貝殻が、多く、地表に出ていたのだろうと思います。

今、地表に残っているものは、発掘調査の時にでも、掘り返されたものでしょうかね。