今、この本を読んでいますが、とても、面白いです。
タイトルの通り、主題は「徳政令」ですが、その前に、中世、特に、鎌倉時代の頃、人々にとって「法」とは、どのようなものだったのか。
その説明があります。
さて、この「法」というもの。
現在では、一般市民に「このような法律が出来ました」ということを公表し、施行されることになる。
一般市民が、何らかの「法」を知ろうを思えば、六法など、本屋さんで売っていますし、市民生活に大きな影響を与える「法」が制定される時には、マスコミが、大きく報じてくれるので、誰でも、その「法」を知ることが出来る。
では、鎌倉時代、例えば、幕府によって制定された「法」は、どのようにして、一般の人たちが知ることになったのか。
基本的に、幕府から「このような『法』が出来ました」ということを、世間に公表するということはなかったそうですね。
つまり、世間の人たちは、幕府が、どのような「法」を制定したのか、何も知らないのが普通だったということ。
時には、「そのような『法』が、実際に、存在しているのか」ということ自体が、裁判で争われることがあったそうですね。
現代社会からすると、とても、信じられない話。
ここで、疑問ですが、そもそも「法」が存在するのかどうか、分からないのに、裁判が出来るのか。
現代社会に住む人たちからすると、不思議なことでしょう。
ここから、鎌倉時代に行われた裁判のからくりを説明します。
この裁判は、紀州の荘園で起こった、収益の分配を巡る裁判だそうで、それは、京都の六波羅探題に持ち込まれたもの。
領主の寂楽寺と、地頭の湯浅氏の間で、行われた裁判です。
その裁判の過程で、地頭の湯浅氏が提示した「法」が、実際に、存在するのかどうかということが問題になったそう。
ここで、更に、疑問です。
六波羅探題という幕府の機関ならば、幕府が制定をした「法」は、当然、知っているのではないか。現代社会の人なら、そう思うでしょう。
しかし、どうも、六波羅探題自体が、その「法」が、実際に、存在をするのかどうか、知らなかったよう。
これで、許されるのか。これで、裁判が出来るのか。
現代社会の人は、そう思うでしょうが、当時は、これで、裁判が出来るんですね。
なぜ、これで、裁判が出来るのか。
当時、裁判というものは、裁判を受ける側が、必要な証拠を、全て、自分で用意をしなければならなかったそうです。
つまり、今回のケースでは、「こういう『法』がある」ということを、自分自身で証明しなければならなかった。
地頭の湯浅氏は、因幡国の国衙の役人から、幕府法の写しを手に入れて、その「法」が、実際に、存在するということを証明したそうです。
また、別のケースでは、「自分が『御家人』である」ということを、自分自身が裁判の中で証明しなければならないケースもあったようですね。
この本の主題である「永仁の徳政令」に関して、伊予国の三嶋という御家人が、六波羅探題に起した裁判でのこと。
実は、この徳政令が、対象にしていたのは「御家人」です。
この「御家人」とは、言い換えれば「幕府に仕える武士」ということになる訳ですが、「幕府に仕える武士」のことを、幕府自身が、分からないのかというのが、現代社会に住む人たちの疑問でしょう。
しかし、これが「分からない」ということで正解のようです。
幕府自身、誰が「御家人」で、誰が「御家人」ではないのか、正確には、把握してなかったようです。
そのため、三嶋は、「元久二年閏七月日、右大将家御下知」と書かれている文書を提出することになる。
この文書で、三嶋は、自分が「御家人」であることを証明した訳ですが、なんと、この文書は「偽書」だったそうです。
余談ですが、この「偽書」が、「吾妻鏡」を編纂した時に、資料として使われたようで、「吾妻鏡」の中にも、この文書を元にしたと思われる記述があるそうです。
つまり、鎌倉時代、「法」というものは、公的機関を含め、基本的に、多くの人が知らないものだったようです。
そして、何か、もめ事が起き、裁判を起すのならば、「法」にしろ、「自分の身分」にしろ、裁判に必要なものは、自分自身で、証拠を集め、提出しなければならなかったということ。
さて、現在、鎌倉幕府が制定した「法」を知るには、「追加集」「吾妻鏡」「古文書」の三つがあるそうです。
「追加集」というのは、様々な幕府法を集めた法令集だそうですが、誰が、何時、編纂したのかは不明だそうです。
「吾妻鏡」は、鎌倉幕府の歴史書。
「古文書」は、個人の残したもので、その中に書かれた「法」は、偶然、後の世に、残ったもの、と、言うことになる。
これらの史料から、現在、鎌倉時代に制定された「法」を、今の人たちは知ることが出来るのですが、恐らく、当時を生きた人たちは、これらの「法」の、ほとんどを知らなかったということ。
しかし、例外の「法」がありました。
それが、この本の主題である「永仁の徳政令」です。
この「永仁の徳政令」は、当時の常識からすると、とんでもなく早いスピードで日本全国に広まり、社会のあらゆる人の間に知れ渡る「法」となったよう。
それは、なぜ、なのか。
以降、また、続きます。