鎌倉幕府を滅ぼした、足利尊氏、新田義貞ですが、その後、対立をすることになります。

その経緯を、この本から。

そして、他の本から得た知識と、自身の私見を交えて。

 

 

恐らく、足利尊氏の指示を受け、上野国新田荘で挙兵をした新田義貞は、鎌倉幕府の軍勢を打ち破り、その後、足利尊氏の嫡男、千寿王と合流し、鎌倉に向かいます。

 

元弘3年(1333)5月22日、鎌倉を落とした新田義貞、足利千寿王の軍勢は、鎌倉に留まります。

当時、合戦に参加、活躍をし、恩賞を貰うには「着到状」「軍忠状」などを指揮官に提出し、証判を貰う必要がありました。

この時、武士たちが証判を求めたのは、新田義貞を始めとした、新田一族の人たちです。

つまり、この鎌倉攻略は、新田義貞を総大将に、新田一族が指揮を取ったと、参加をした武士たちが認識をしていたと言える。

しかし、次第に、足利千寿王に近づく者、京都に居る足利尊氏に着到状を送り、証判を貰う者が出て来ます。

これは、足利尊氏が、後醍醐天皇から官軍の軍勢催促、着到認定を任されていたことと関係をしている。

つまり、鎌倉攻略の指揮を取ったのは新田義貞ですが、後醍醐天皇の元で、武士を統括するのが足利尊氏だったということ。

これは、新田義貞が、足利尊氏の影響下で行動をしていたということを意味しているものと思われます。

 

しかし、鎌倉を落としたという新田義貞の功績は、多くの武士に認められたようで、どうも、鎌倉の中では、新田義貞を支持する者、足利千寿王、尊氏を支持する者との間で、混乱が起こり始めていたようです。

この混乱を懸念したためか、8月初旬までに、新田義貞は、岩松氏ら、一部を除いた新田一族を率いて、京都に登ります。このため、鎌倉は、足利氏の支配下となる。

 

この新田義貞が、せっかく、陥落させた鎌倉を支配することなく、足利氏に明け渡す格好で、上洛をしたのは、かつては、新田義貞の「政治能力の低さ」として評価をされていたようですが、それは、実際、鎌倉幕府の中で、政治的力を持つことが出来なかった新田本宗家の立場からして、仕方がないことだったのでしょう。

先に紹介をした通り、足利家は、鎌倉時代、すでに、北条得宗家に次ぐ家格を持ち、武士を支配するためのシステムと政治力を備えていましたが、新田家には、それが無い、武家としては家格が、かなり低かったということ。

それを、新田義貞の個人の資質として評価をすることは、無理があると感じるところ。

また、新田義貞の上洛にもまた、足利尊氏の指示があった可能性もある。それは、後醍醐天皇の意思もあったのかも知れません。

 

12月、後醍醐天皇は、成良親王と共に、足利直義を鎌倉に送り、関東10カ国を支配する鎌倉将軍府が設立されることになります。

実は、この鎌倉将軍府は、後醍醐天皇の意向では、関東10カ国の軍事を担当するだけで、行政、裁判に関しては、京都で担当することにしていたそうですね。

しかし、鎌倉将軍府は、足利直義の元、鎌倉幕府を継承する組織を作り上げ、武家政権の復活を目論むことになる。

 

この足利直義という人物。

どうも、鎌倉幕府を継承する武家政権を作りたいという思惑があったようで、この足利直義の行動は、後々、室町幕府に大きな混乱を呼ぶことにもなるのですが、それは、また、別の話。

 

後醍醐天皇は、6月4日、伯耆国から京都に戻る。天皇親政による「建武の新政」を始めることに。

この「建武の新政」は、かつては、公家ばかりを重視し、武家を軽んじたために、うまく行かなかったように評価をされていましたが、それは、今では、誤りという評価のようです。

では、なぜ、武士の不満を呼んだのかというと、それは、「恩賞の給付の遅延」に原因の一つがあったよう。

しかし、これもまた、別の話。

 

足利尊氏は、鎌倉幕府を滅ぼしたという功績により、6月5日、鎮守府将軍に任命され、昇殿を許される。

6月12日、従四位下、左兵衛督に任じられる。

8月5日、従三位、武蔵守に任命され、公卿となる。

建武の新政に参加をした武士の中で、公卿となったのは、足利尊氏だけだそうで、この時、後醍醐天皇から名前、「尊治」の一字を貰い「尊氏」と名乗る。

 

かつて、この「建武の新政」の中で、足利尊氏は、要職につかなかったため、後醍醐天皇から警戒され、排除されたと言われていたようですが、今では、その評価は、間違いとなっています。

実際は、「建武の新政」の中で、足利尊氏は、武家の統率者として、武家の頂点にあり、しかも、東国の支配を、ほぼ、任されたといっても良い立場となっていたよう。

足利尊氏の社会的地位の高さは、上の昇進から見ても、よく分かります。

 

一方、新田義貞は、8月5日、従五位下、上野国、越後国の国司に任命されたと思われる。

10月末から11月10日間に、従五位上、播磨国の国司に任命される。

翌年2月、従四位上に叙される。最終的には、従四位上までなり、貴族に列した。

これは、新田義重以来、歴代の新田本宗家当主の中では、最高の位です。

そして、建武の新政の中で、洛中の警護と、近畿地方の反乱鎮圧を担う「武者所」の頭人には、新田一族が任命されることになる。

無位無官だった新田義貞が、ここまで昇進出来たのは、後醍醐天皇が、新田義貞による鎌倉攻略を、高く評価したため。

 

新田義貞は、「建武の新政」の中で、急速に、その社会的地位を上昇させて行きます。

もちろん、その立場は、足利尊氏には及びません。

しかし、この地位の上昇の中で、新田家は、次第に、政治力、武士を支配する能力を身に着けて行ったのではないかと思われます。

しかし、その期間は、あまりにも短すぎたということになるのでしょう。

 

足利尊氏は、鎌倉幕府を裏切り、六波羅探題を滅ぼし、京都に入ると「奉行所」を開設し、全国の武士たちから送られて来る着到状の認定を行っていたそうです。

建武元年(1334)9月、後醍醐天皇が、石清水八幡宮、賀茂社に行幸しますが、有力武士を従えて、後醍醐天皇の警護を担当したのは、足利尊氏です。

足利尊氏は、後醍醐天皇の元で、軍事を担当し、武士を統括していたということ。

つまり、後醍醐天皇によって武者所を統括する立場に任命されていた新田義貞もまた、足利尊氏の支配の元にあったと考えられる。

 

後醍醐天皇の元で、武士を統括する立場にあった足利尊氏は、護良親王と対立することになります。

護良親王は、後醍醐天皇が隠岐の島に流された後も、畿内で、反幕府勢力と共に戦い、鎌倉幕府が倒れた後、自身が、武士の統括者となることを望んでいたようです。

そして、護良親王は、建武の新政の中で、征夷大将軍となっていましたが、足利尊氏の存在によって、武士を統括する立場にはなれなかった。

建武元年(1334)3月、護良親王は、足利尊氏に対して、軍事行動を起すことを考えますが、断念。6月、再び、軍事行動を起そうとしますが、断念。

足利尊氏を武力で排除することは、不可能だったということ。

そして、どうも、護良親王は、後醍醐天皇との関係も、次第に、悪化させて行ったよう。

10月、護良親王が、皇位を奪おうとしているという情報が、後醍醐天皇の耳に入り、武者所が、護良親王を捕縛。護良親王は、失脚します。

 

この時、護良親王の捕縛に向かったのは武者所の武士たちだったようです。

この、足利尊氏と対抗するために活動していた護良親王を、新田義貞をトップとする武者所が捕縛をしたのも、新田義貞の政治的無能さを表すように言われていたようですが、そもそも、この時期、新田義貞は、まだ、足利尊氏の配下にあり、尊氏に対抗しようなどという意思は、毛頭、無かったものと思われます。

つまり、後醍醐天皇の意思に反してまで、護良親王の捕縛にストップをかける必要は、新田義貞には、無かったということになる。

 

新田義貞は、上野国、越後国、播磨国の国司に任命されたことで、政治的経験を積む機会を得たと思われる。

しかし、それを生かすには、新田義貞の人生は、短すぎたということになる。

 

建武2年(1335)6月、京都で、西園寺公宗らが、後醍醐天皇の命令によって捕縛される。

5月、信濃国で、北条時行が挙兵、「中先代の乱」の始まりです。

鎌倉将軍府は、この北条時行軍を防ぐことが出来ず、足利直義は、鎌倉に流されていた護良親王を殺害して、鎌倉を脱出し、三河国に逃れる。成良親王を京都に戻し、足利尊氏に援軍を要請。

これに対して、足利尊氏は、征夷大将軍と総追捕使に任命されること後醍醐天皇に求めます。しかし、後醍醐天皇は、これを認めませんでした。

8月2日、足利尊氏は、後醍醐天皇の許可がないまま、京都を出陣。驚いた後醍醐天皇は、足利尊氏を征東将軍に任命し、出陣を追認する。

8月19日、足利尊氏は、鎌倉を奪還。

8月末、尊氏は、その功績で、従二位となる。

 

鎌倉に入った足利尊氏は、自身の裁量で、武士や寺社に、恩賞を与え始めます。

恩賞の給付は、建武政権の専権事項とされていて、尊氏は、これを破ったことになる。

これに対して、後醍醐天皇は、鎌倉に使者を送り、恩賞の給付は自分が行うこと、尊氏には、すぐに京都に戻ることを伝えますが、尊氏は、これを了承するものの、直義は、これに強く反対をし、尊氏を鎌倉に留まらせる。

11月2日、足利直義は、新田義貞追討のため、軍勢催促を始める。

足利直義は、後醍醐天皇と戦うことを決断する。

 

この時、足利直義は、直接、後醍醐天皇と戦うことではなく「新田義貞」と戦うことを表明する訳ですが、それは、なぜなのでしょう。

 

一つは、やはり、天皇を相手に戦うという立場は、避けたかったということなのでしょう。

そのため、天皇を支える武士である「新田義貞」を相手に、戦うという立場を、世間に表明することにした。

しかし、天皇を支える武士には、「新田義貞」の他に「楠木正成」も居た訳ですが、なぜ、「楠木正成」ではなく、「新田義貞」なのか。

それは、おそらく、後醍醐天皇によって新田義貞が、重用され、次第に、社会的地位を上げているということに、警戒感があったのではないかと思われます。

 

つまり、鎌倉を陥落させることで軍事指揮官としての能力を証明し、武家としての名声を獲得。更に、後醍醐天皇に重用されることによって、社会的地位を得ることに成功していた「新田義貞」という人物は、同じ、「清和源氏」の一族として「武家の棟梁」として、足利尊氏に対抗する人物になりえると、足利直義は、評価をしたのではないでしょうか。

まさか、無位無官で、足利の一門の末端に位置する無名の一人の武士に過ぎなかった新田義貞が、このような立場になってしまうとは、足利尊氏、直義、共に、思っていなかったはず。

 

逆に言えば、新田義貞は、足利尊氏のことを、自身の主家の当主と認識していたはず。

その足利尊氏、直義から、追討の対象として名指しをされたことには、大きく驚いたのではないでしょうかね。

そして、そこで、新田義貞もまた、主家であった足利尊氏と戦う決断をしたのではないでしょうか。

 

11月10日、足利尊氏、直義が、新田義貞追討を名目に挙兵をしようとしているという報告が、京都に入る。これは、足利尊氏による「義貞を追討すべき奏状」が、後醍醐天皇に届けられたことによる。

11月12日、後醍醐天皇は、鎮守府将軍を足利尊氏からはく奪し、北畠顕家に与える。

後醍醐天皇もまた、足利尊氏、直義と戦うことを決断する。

四国、西国から、足利尊氏による軍勢催促の御行書として数十通が届けられたことで、足利尊氏の挙兵は確実となり、後醍醐天皇は、尊良親王を「上将」、新田義貞を「大将軍」に任命し、足利尊氏の追悼を命じる。

11月26日、後醍醐天皇は、足利尊氏、直義の、全ての官職をはく奪する。

 

11月18日、内裏において、出陣の儀式が行われる。

 

そして、新田義貞は、天皇の軍事指揮権の象徴である節刀を与えられ、京都を出陣する。