三島由紀夫という人について、先のブログに、少し、書きましたが、この三島由紀夫は、幕末に活躍をした幕臣「永井尚志」の子孫なんですよね。

この永井尚志の子孫の会である「桜木会」というものがあり、年に一回の親睦会が行われいたそうで、三島由紀夫も、その中の一人。

ちなみに、昭和45年には、270名の会員が居たそうです。

この永井尚志の養子、永井岩之丞の長女、夏子が、平岡定太郎という人物に嫁ぎ、その孫が、平岡公威(三島由紀夫)だそうです。

 

さて、この永井尚志という人物。

 

幕末史に興味がある人ならば、名前は、よく知っているでしょう。

様々なところに顔を出し、優秀な幕府官僚だったことには、間違いない。

しかし、この永井尚志が、どういう経歴を持った、どういう人物なのか。

余程、興味がある人でないかと、知らないのではないでしょうか。

 

 

この本。

一度、読んで見たいとは思うのですが、購入するのは、少し、悩むところ。

やはり、あまり、魅力を感じる人物ではないから、と、言うことになるのでしょう。

 

ネットで、経歴を、調べてみる。

 

文化13年(1816)11月3日、三河国奥殿藩の藩主、松平乗尹の側室の子として生まれる。

父の晩年の子で、25歳の時、旗本、永井尚徳の養子となったそう。

 

嘉永6年(1853)、目付として登用される。海防掛を兼ねる。

安政元年(1854)、長崎に行き、長崎海軍伝習所の所長を務め、長崎製鉄所の創設に着手。

安政4年(1857)、勘定奉行となる。

安政5年(1858)、外国奉行となる。

安政6年(1859)、軍艦奉行となる。

安政の大獄では、一橋派に属したため、失脚。

文久2年(1862)、京都町奉行となる。

元治元年(1864)、大目付となる。

元治2年(1865)、外国奉行となる。

慶応3年(1867)、若年寄となる。

 

さて、以上、永井尚志の役職の変遷を、簡単に、書きましたが、典型的な、いわゆる幕臣「開明派」官僚の一人。

この「開明派」と呼ばれる幕臣たちは、学問優秀、外国事情に詳しく、高い見識を持ち、能力に長けた官僚たち。

 

 

この本は、この「開明派」と呼ばれる幕臣たちを紹介したもの。

僕は、この本で、岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠徳、堀利熙といった開明派の幕臣たちの活躍を知ったのですが、残念ながら、永井尚志についての紹介は無かったはず。

幕府は、決して、外国に対して、無知、無能で、列強の言うがままに、開国をした訳ではないということを、この本で、初めて、知りました。

 

さて、この永井尚志は、最後の将軍、徳川慶喜の側近としても活躍。

 

あの坂本龍馬が、暗殺をされる直前、この永井尚志の元を、よく訪れていたという話を、何かの本で、読んだ記憶があります。

恐らく、大政奉還に関する話をしていたのだろうと思われますが、実は、坂本龍馬が訪れていた永井尚志は、当時、あの京都見廻組の施設の近くで生活をしていたようで、もしかすると、佐々木只三郎は、目の前を通り、永井に会いに行く坂本龍馬を見ていたかも知れない。

土佐の浪人と、将軍の側近とが、しばしば、面会をしていることを、佐々木は、あまり、よく思わなかったかも。

 

この永井尚志は、戊辰戦争では、あの榎本武揚と行動を共にし、箱館まで、戦い続けることになるんですよね。

それだけ、薩摩、長州ら、新政府には、反感を持っていたということなのでしょう。

ちなみに、同じ、開明派官僚として活躍した川路聖謨は、江戸開城の日に、自殺をしている。

やはり、自分は幕臣であるという意識が強く、新政府の世を見る気にはなれなかったということでしょうか。

 

ちなみに、永井尚志もまた、箱館で降伏後、一時、獄に入れられる訳ですが、出獄後、新政府に出仕し、元老院などで仕事をしたようです。

明治24年(1891)7月1日、没。76歳。