この本から、足利尊氏、新田義貞の登場と、鎌倉幕府の滅亡まで。

 

 

足利貞氏の嫡男は、正妻である金沢顕時の娘の子、高義です。

そして、足利貞氏は、30代の若さで出家。嫡男の足利高義が、当主となります。

しかし、足利高義は、文保元年(1317)、21歳の若さで、亡くなってしまいます。

この時、足利高義には、子供が居ましたが、まだ幼少。そのため、父、足利貞氏が、当主に復帰し、元徳3年(1331)9月に亡くなるまで、当主を続けます。

 

足利貞氏には、側室である上杉頼重の娘に、高氏(後の、尊氏)、高国(後の直義)が居ましたが、尊氏は、異母兄、高義が亡くなった時、まだ13歳。

しかし、なぜ、尊氏が、高義の死後、当主になれなかったのか。

それには、高義の母が、高義の子に、足利家当主になることを望んだためと考えられます。

そのため、足利貞氏が、当主に復帰することになったようですが、結局、貞氏は、尊氏を後継として、亡くなることになります。

 

足利尊氏は、北条一門である赤橋久時の娘、登子と結婚。

これは、北条家から妻を迎えて来た歴代の足利家当主にならうもの。

また、尊氏が、母を北条一門としないことの補完でもあったでしょう。

そして、父、足利貞氏の死後、尊氏は、足利家当主となります。この時、27歳。

 

一方、新田本宗家。

 

当主、新田朝兼は、正和4年(1315)まで、活動が確認できるということ。

文保2年(1318)10月、嫡男だった新田義貞の活動が確認できるということで、この間に、義貞は、家督を継いだのだろうということ。

新田義貞の生まれ年は、定かではなく、尊氏よりも、やや、年上と考えられるということ。

この時、18歳前後と考えられる。

 

ちなみに、別の本によれば、新田義貞は、新田一族の里見家から養子に入ったという説もあるそうですね。

また、「義貞」という名前は、足利高義を烏帽子親にしたとも考えられ、元服をしたのが、足利高義が足利家当主だった時期とも考えられるということ。

 

新田義貞は、北条家の被官、安東氏の一族と思われる安東重保の娘と結婚。この安東重保は、新田本宗家の所領だった八幡荘の近くの上野国甘楽郡の地頭だったようです。

この新田義貞、足利尊氏の正妻の格を比べると、新田義貞は、足利尊氏の被官に近い立場だったということが分かる。

 

元徳3年(1331)8月、後醍醐天皇が、山城国の笠置山で挙兵。ちなみに、足利尊氏が、足利家当主となったのは、直後の9月ということになる。

足利尊氏は、幕府軍の大将軍の一人として出陣。幕府軍は、笠置山を落とし、尊氏は、11月まで京都に留まったが、朝廷に挨拶をすることもなく、他の大将たちを残して、鎌倉に戻る。これは、尊氏が、父、貞氏の仏事の済まないうちに出陣を命じられたことに不満を持っていたことの現れだろうということ。

この時の軍功で、翌年の6月、尊氏を、従五位下から、従五位上に昇叙するように、幕府は、朝廷に申請する。

 

笠置山で幕府軍に敗れた後醍醐天皇は、隠岐の島に流される。しかし、護良親王が、畿内で挙兵し、楠木正成も、赤坂城を奪還。これに対応するため、幕府は、西国御家人と京都大番役を動員。この時、京都大番役を務めていたのは上野国の御家人たちで、新田義貞を始め、里見氏、山名氏ら、新田一族も、楠木正成の千早城攻めに動員される。

 

正慶2年(1333)閏2月、後醍醐天皇は、隠岐の島を脱出し、伯耆国の船上山城に入る。これに対応するため、幕府は、関東から追討軍を派遣することを決定。尊氏に出陣が命じられる。この時、尊氏は、得宗、北条高時に、妻子を鎌倉に留め、起請文の提出を求められたということ。3月27日、足利尊氏は、鎌倉を出陣する。

 

この時、尊氏の伯父であり、足利家の被官である上杉憲房が、幕府を裏切り、後醍醐天皇の側につくことを勧めたということ。

三河国、矢作宿で、尊氏は、吉良貞義に後醍醐天皇につくことを相談し、同意を得る。

近江国、鏡宿で、後醍醐天皇の北条高時追討の綸旨が、尊氏に届けられる。

4月16日、尊氏、京都に到着。翌日、後醍醐天皇に、使者を派遣し、味方になることを伝える。

 

さて、この上の、足利尊氏の幕府を裏切る経緯ですが、別の本によれば、尊氏が、幕府を裏切ることを決断した経緯というものは、よく分からないという話のようです。

一つの説によれば、尊氏と共に出陣をしていた、北条一門であり、大将の名越高家が討ち死にをしたことが、きっかけになったのではないかという話も。

 

一方、楠木正成の千早城を攻める幕府軍の中に居た新田義貞。

この新田義貞の元に、護良親王から、北条氏追討の令旨が届く。実は、この護良親王の令旨は、新田義貞だけではなく、幕府軍の御家人たちに、広く、届けられたと思われる。

そして、新田義貞は、病気と称して、千早城を攻める幕府軍を離れ、上野国に戻る。

 

本拠地、上野国新田荘に戻った新田義貞ですが、その頃、幕府は、関東近国の荘園に、戦費の調達を賦課する。この時、新田荘にある世良田宿には、6万貫が賦課されたと言われ、これに不満を持った人たちが、新田義貞に訴え、義貞は、幕府から派遣された徴税使の一人を殺害、一人を追放し、反幕府の挙兵を決断する。

 

上の、新田義貞の挙兵の経緯は「太平記」に書かれたもので、疑問もあるということ。

実は、新田一族の岩松経家の元に、4月22日付けの足利尊氏の北条高時追討を命じる御内書が届けられていた。恐らく、新田義貞の元にも、同様の書状が届いていた可能性が高い。

もし、上のような事実があったとしても、それは、挙兵のきっかけになっただけで、基本的には、新田義貞の挙兵は、足利尊氏の命令によるものだろうということ。

そして、この足利尊氏による北条高時追討の書状で、現存するものは、4月27日付け、4月29日付けのものばかりだそうで、岩松経家宛ての書状は、最も、早いものということ。

つまり、足利尊氏は、新田一族を始め、足利一門に、いち早く、挙兵の命令を出したということになる。

 

4月27日、京都を出陣した足利尊氏は、丹波国篠村荘に入ると、幕府に反旗を翻し、諸国の武士たちに挙兵を呼びかける。これは、後醍醐天皇から官軍の催促、指揮を一任されたことによる措置だった。

5月2日、鎌倉に居た足利尊氏の妻、登子と、嫡男の千寿王は、鎌倉を脱出し、新田荘の世良田宿に向かう。これは、恐らく、尊氏による新田本宗家、または世良田氏に、脱出の手引きをする要請があったと思われ、この出来事によって、幕府は、足利尊氏の謀反を把握。

 

5月7日、足利尊氏は、丹波国篠村荘から、京都に向けて出陣。六波羅探題の軍を打ち破り、長官だった北条仲時、時益は、京都を脱出。しかし、落ち武者狩りにあい、時益は、討ち死に。仲時は、近江国番場宿で、配下の400名と共に、自害。

 

5月8日、新田義貞が新田荘市野井郷の生品神社で挙兵。八幡荘に入ると、上野国、越後国、信濃国、甲斐国など、周辺地域の武士たちが、新田義貞の元に集結。

新田義貞は、大軍を率いて、鎌倉を目指して南下する。

5月12日、尊氏の嫡男、千寿王が、上野国世良田宿で挙兵。

5月16日、新田義貞は、武蔵国の国府近郊にある分倍河原で、幕府軍を打ち破る。

新田義貞は、足利千寿王と合流し、軍を三つに分け、極楽寺坂、小袋坂、化粧坂から、鎌倉の攻略を目指す。

5月21日、新田義貞が指揮する軍勢が、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市中に攻め込む。

5月22日、北条高時、以下、北条一門、被官、870名余りが、東勝寺で自害。

 

5月25日、九州では、足利尊氏の呼びかけに応じた武士たちが、鎮西探題を攻め落とし、ここに、鎌倉幕府は、滅亡をすることになる。

 

以上、足利尊氏の謀反から、鎌倉幕府は、あっという間に滅亡を迎える訳ですが、別の本によれば、鎌倉幕府が、なぜ、滅びたのか。

現在の研究では「よく分からない」ということになるそうです。

 

今の研究では、「鎌倉幕府が滅びなければならない理由は、何も、見つからない」ということで、恐らく、後醍醐天皇が挙兵をしなければ、鎌倉幕府は、その後も、何の問題もなく続いていた可能性が高い。

また、足利尊氏が後醍醐天皇の側につかなければ、鎌倉幕府は、滅びなかった可能性が高い。

と、言うことになるようです。