鎌倉時代も後期に入ると、新田氏と足利氏の御家人としての格差は、圧倒的になります。
その状況を、この本から。
鎌倉幕府における足利氏の立場を確立した足利義氏。
その足利義氏は、建長6年(1254)に死去します。66歳。
足利本宗家は、孫の足利頼氏が、継ぎますが。まだ、15歳。
将軍、宗尊親王の側近として仕えたそうですが、弘長元年(1261)7月の記事を最後に、姿を消し、翌年には、亡くなったものと思われる。どうも、病弱だったようですね。23歳。
足利頼氏の死後、嫡男の足利家時が、後を継ぐ。足利頼氏の正妻は、北条時盛の娘でしたが、子供が生まれず、側室だった上杉重房の子、家時が、後を継ぐことになった。この時、家時は、たった、3歳。当然、足利家当主としての仕事は出来ず、かつて、足利家の嫡男だった伯父の家氏が、足利家当主の役割を代行することになる。
弘長3年(1263)8月、幕府は、将軍、宗尊親王の上洛に備えて、道中の供俸人などのリストを定めるのですが、その中で、上位14人の中で、北条一門の有力者5人に次いで、家氏の名前が記されている。
この時、家氏は、五位、尾張守という官位を得ていましたが、家氏の異母兄で、足利泰氏の長男だった長氏もまた、五位で上総介の官位を得ていたそう。このため、足利義氏は、長氏の方を、家時の後見に選んでいた可能性もあるということ。
ちなみに、足利長氏の子孫から、吉良氏が生まれ、足利家氏の子孫から、斯波氏、石橋氏が生まれることになる。
文永5年(1268)1月、モンゴルからの使者が、日本に来る。
3月、北条時宗が、執権に就任。18歳。
文永7年(1270)、幕府は、将軍、維康親王の源氏賜姓を、朝廷に申請し、認められる。源氏将軍、源維康の誕生です。
これは、モンゴルに対抗するため、幕府は、将軍を、源頼朝に見立て、御家人を結集し、モンゴルに対応しようという意図があったということのよう。
弘安10年(1287)、将軍、源維康は、再び、親王宣下を受け、維康親王に戻る。
しかし、この17年に及ぶ源氏将軍の復活は、御家人たちに、将軍は源氏の嫡流が任命されるものという印象を植え付けたたようです。
そして、足利本宗家の当主、足利家時は、北条得宗家に次ぐ家格を持ち、源氏の嫡流に最も近い血統を持つと認識されるようになったと考えられる。
弘安7年(1284)4月、北条時宗が死去。北条一門の中での権力争いが始まります。
6月、六波羅探題の南方長官だった北条一門の佐介時国が、鎌倉下向を命じられ、10月に常陸国で誅殺される。
8月、時国の叔父、時光もまた、謀反の疑いで捕縛され、佐渡島に流罪となる。
この一連の流れと関係があるのか、足利家時が、6月に、自害。25歳。
足利家時もまた、この一連の謀反に関わりがあると疑われた可能性がある。
この足利家時が自害をする時に「三代のうちに、天下を取れ」という置文を残したというのは有名な話ですが、史実とは思えない。しかし、何らかの置文を残したことは、事実だったようです。
弘安8年(1285)11月、北条得宗家の執事、平頼綱が、得宗家当主、北条貞時の外祖父、安達泰盛を討つ。いわゆる「霜月騒動」です。
この霜月騒動では、安達泰盛の側に付いて討たれた足利一族も居ましたが、討たれたのは、吉良氏、斯波氏らで、本宗家には、連座は及ばなかったそう。
足利家時の自害で、後を継いだのは、足利貞氏です。12歳。
そして、霜月騒動で処分を受けた吉良家、斯波家は、平頼綱が、正応6年(1293)4月に北条貞時によって討たれると、復権を果たす。
足利貞氏は、北条得宗家、足利一族の有力者、吉良家、斯波家に、気を遣わなければならなかった。
足利貞氏は、北条一門の金沢顕時の娘を正妻とします。この正妻との間に、嫡男、高義が生まれることになる。
この「高義」という名前ですが、これまで、足利氏の当主は、基本的に、北条得宗の実名、一字に「氏」をつけたもの。しかし、「高義」の名は、この慣例を外れている。
鎌倉時代の末期、御家人たちの間で、源頼朝の家人になった先祖の実名の一字を名乗る場合が増えて行くということ。これは、元寇の時に行われた源氏将軍の復活、源頼朝の権威の復活に原因があると思われる。
恐らく、足利高義の場合、源頼朝に仕えた足利義兼から「義」の字が取られたと考えられる。
また、同時期、吉良家の当主が貞義を名乗っているそうで、これに対抗する意識もあったものと思われる。
正安4年(1302)2月、足利貞氏は、長年の「物狂所労」のため、祈祷を受けたという記録があるそう。北条得宗家や、足利家の有力一門である吉良家、斯波家の間で、精神的に、追い詰められたのでしょうか。
嘉元3年(1305)5月までには、まだ30代の始めで、出家をしたと考えられるそう。
一方、新田本宗家。
寛元2年(1244)6月、新田本宗家の当主、新田政義が、自由出家によって、失脚。
嫡男の新田政氏が、後を継ぎ、建長6年(1254)、御家人として活動をしているのが見える。
しかし、新田一族は、本宗家を始め、里見家、山名家もまた、上の一連の鎌倉幕府の政争の中に姿は見えない。つまり、新田氏一族は、鎌倉幕府の政治の中枢からは、離れていたということになる。
新田政義の失脚後、新田氏の惣領となったのは、世良田頼氏と考えられ、五位、三河守という高い官職を得ていた。そして、史料にも、「世良田」ではなく「新田」の姓で登場をするようになっていたそう。
このまま順調にいけば、世良田氏が、新田氏の嫡流になる可能性もあったでしょう。
しかし、文永9年(1272)2月に起きた「二月騒動」で、失脚したものと思われる。
この「二月騒動」は、当時の執権、北条時宗が、権力強化のため、異母兄の北条時輔、北条一門の名越時章、教時の兄弟を誅殺したもの。この時、世良田頼氏は、佐渡に流罪となっている。
世良田頼氏は、足利義氏の娘を妻としていたが、名越時章、教時の姉妹に当たる女性も妻にしていて、この「二月騒動」に連座をしたと思われる。
世良田頼氏の失脚によって、新田氏の惣領は、新田本宗家に戻る。
新田本宗家は、新田政氏、新田基氏、新田朝氏と続きますが、朝氏は、「朝兼」と改名をします。
この改名もまた、源頼朝に仕えた新田義兼の一字を取ったと考えられる。
この「朝氏」から「朝兼」への改名は、足利家を意識した「氏」の一字を放棄することでもあり、これが、新田本宗家にあった足利一門への所属の意識を相対化させることにもなったのではないかと思われる。
鎌倉時代、足利氏は、幕府の中枢に連なる有力御家人となり、新田氏は、上野国に所領を持つ一般の御家人となった。
足利氏、新田氏には、御家人としての大きな格差が生まれた訳ですが、まず、足利氏から。
足利氏の本領は、下野国足利荘ですが、鎌倉にも複数の屋敷を持ち、活動の拠点は鎌倉にあったと考えられる。
足利家時の時代から、足利氏は、下野国足利荘を訪れることは、ほぼ、無くなったのではないかと考えられるよう。
足利氏は、三河国、上総国の守護を兼ね、全国に30カ所以上の所領を持ち、それらの経営は、鎌倉を拠点として行われた。
鎌倉にあった足利氏の本邸には、政所、奉行所、御内侍所が設置され、全国の所領や家臣を支配。
つまり、足利家の中には、家政機関として、もう一つの幕府のようなものがあったということになる。
ちなみに、この足利家の家政機関の中心となったのが、足利家執事の高氏です。
足利氏の被官の中には、幕府で役人として仕事をしていた者も多く居て、足利氏は、家政機関の運営を、彼らから学び、それが、後の室町幕府へと発展することになる。
一方の新田氏は、活動の拠点は上野国新田荘にあり、鎌倉には、用がある時に出かける程度だったと考えられる。
新田氏は、上野国の中央部から東部、武蔵国の北部に勢力を持つ地域権力となっていた。
新田義重は、これらの地域の交通、流通を掌握し、周辺の経済拠点を支配。そして、新田氏は、本宗家、里見家、山名家、世良田氏ら、同族の緩やかな連携で、この地域を支配していた。
新田氏の被官は、足利氏のような史料が残されていないので、詳しいことは分からないということ。
しかし、被官と思われる人物の名字から判断をすると、大体、この支配地域の武士たちを被官をして取り入れたのだろうということが推測出来、足利氏のような幕府の役人経験があると思われる者は、存在をしないということのよう。
以上のように、鎌倉時代の後期、すでに、足利氏は、御家人を支配する側の御家人であり、新田氏は、支配される側の御家人だったということ。
そして、新田義貞、足利尊氏の登場、と、言うことになります。