雑誌「歴史人」11月号。

特集は、「空白の四世紀・8つの謎」。

 

 

中国の史書「魏志倭人伝」に、邪馬台国の話が登場してから、約100年、中国の史書に、日本のことは登場しなくなるそうですね。

次に、日本のことが登場するのは、百済王から倭王に送られた七枝刀に刻まれた銘文に見える泰和4年(369)だということ。

つまり、267年頃から、369年までの、約100年、日本の記録は、空白になる。

 

414年に建立された高句麗の広開土王の碑にも、倭国のことが登場する。

この碑文には、倭国が、度々、高句麗と戦ったことが記されている。

 

5世紀、「宋書」倭国伝には、412年から478年にかけて、5人の倭王が、宋の皇帝に使いを出していることが記されている。

讃、珍、済、興、武、の5人。

 

この5人が、誰なのかについては、471年、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に記された「ワカタケル王」の実在が確認され、「武」が雄略天皇であるという説が有力。

 

さて、この「古代史」について。

 

基本的には、考古学的史料を、どのように解釈をするのか。

そして、わずかな文献に記された記述を、どう解釈するのか。

 

つまり、この「解釈」というものが、とても、大きな比重を占めている訳で、昔、色々と、本を読んでいた感じたことは、この「解釈」は、いくら、辻褄をつけても、結局のところ、それが「確かな史実」なのかということは、確認出来ないんですよね。

あくまでも、「解釈」というのは、「一つの見方」に過ぎない。

それを、受け入れるのかどうかは、読者次第、と、言うことになる。

 

そして、個人的な関心の一つは、「王朝の交代」が、古代に、あったのかどうか。

 

日本の天皇は、一応、「万世一系」ということになっていますが、古代には、王朝の交代があったのではないかという説も、根強い。

その話もまた、謎の一つとして、記事になっていました。

 

三王朝交代説。

 

これは、初代、神武から9代、開化までは架空として、10代、崇神から、実在。

また、神武から開化までを葛城王朝として、この葛城王朝が、崇神によって滅ぼされたという説もあるそうですね。

しかし、この葛城王朝の実在の可能性は低いというのが有力だそう。

 

崇神から仲哀までの5代を、一つの王朝ととらえ、15代、応神から武烈までを、一つの王朝、そして、継体から現代までを、一つの王朝。

 

つまり、古代、王朝の交代が、二度、あったと考える。

 

しかし、この三王朝交代説は、今では、それほど、有力な説ではないそうですね。

昔、読んだ別の本でも、色々と、説があるようですが、やはり、それが史実だと証明するものは何も無いでしょうから、決着は、永遠につかないのでしょう。

 

さて、この王朝交代説で、最も、重要なのは継体天皇ですよね。

 

この継体天皇は、応神天皇の五代の孫ということになっていますが、本当なのか。

 

出自や即位の経緯について、色々と説があるようですが、これもまた、確証を持った答えが出るようなものではないのでしょう。

わずかな文献と、考古学的史料から、推測をするしかない。

 

さて、この継体天皇は、今城塚古墳というのが、本当の継体天皇の古墳なのではないかと考えられているようですね。

つまり、研究者の間では、今、「継体天皇陵」と言われているものは、継体天皇の墓ではないと考えられているよう。

何で、宮内庁は、天皇陵の指定を変更しようとしないのでしょう。

個人的には、真の継体天皇陵に、誰でも、自由に入ることが出来る方が、宮内庁や国家主義的思想を持つ人たちにとて、大きな問題なのではないかと思うところですが。