新田政義と足利義氏について。

 

 

新田政義は、鎌倉幕府での新田氏の没落を決定的にし、足利義氏は、鎌倉幕府での足利家の立場を確立する人物です。

以下、その経緯を、上の本から見てみます。

 

父、足利義兼の死によって、7歳で、足利家当主となった足利義氏。

元久2年(1205)6月、武蔵国の秩父平氏の族長で、総追捕使でもあった畠山重忠が、北条時政によって滅ばされる。足利義氏は、これに参加。17歳。

しかし、その後、北条時政は、子の北条義時によって失脚させられる。

そして、足利義氏の異母兄、義純が、畠山重忠の後室と結婚し、その子、泰国によって畠山氏が再興される。しかし、義純は、すでに、新田義兼の娘と結婚していて、子供も居たのだが、絶縁し、新田義兼の娘と、その子は、新田家に戻る。

建保元年(1213)5月、侍所別当だった和田義盛が、鎌倉で挙兵。将軍御所を襲うが、足利義氏は、北条泰時らと共に、これを防戦。

この和田合戦の後、足利義氏は、北条泰時の娘を妻に迎える。

建保5年(1217)、足利義氏は、北条時房に代わって武蔵国の国司に就任。

足利義氏は、北条氏の信頼を受け、鎌倉幕府の中枢に参加をして行く。

 

足利義氏は、承久の乱の軍功により、三河国額田郡、碧海荘、吉良荘の地頭職を得る。

暦仁元年(1238)頃、三河国の守護職を獲得。

この三河国の守護職は、代々、足利家当主が受け継ぐことになる。

これは、足利氏が、鎌倉幕府の東部の国境を任されたものと考えられる。

 

元仁元年(1224)6月、北条義時が死去。北条泰時が執権に就任する。

この時、足利義氏は、義時の遺領だった美作国新野保の他、数カ所を拝領する。

更に、義時が持っていた美作国の守護職に任命される。

 

建保3年(1215)3月、新田義兼の妻、新田尼が、夫、義兼の譲状により、幕府から新田荘内の岩松、下今井、田中の三ヶ郷の地頭職に任命される。このことから、新田義兼は、この少し前に亡くなったと考えられる。

新田義兼には、義房という子供が居たが、史料では確認出来ず、義兼の死去よりも先に、亡くなっていたと考えられる。

新田義房の嫡男は、政義で、嘉禎3年(1237)4月、史料の初見。

承久の乱で、新田本宗家は確認出来ず、新田政義が家督を継いだものの、幼少で、参加をすることが出来なかったと考えられる。

 

足利義氏が、北条家と連携し、鎌倉幕府での立場を確立して行く一方で、新田本宗家は、足利義純との婚姻関係が解消され、新田義房の早世、新田義政は幼く、鎌倉幕府御家人としての活躍が出来ない中で、その地位は、低下をして行くことになる。

 

新田政義は、足利義氏の娘と結婚し、嫡男の政氏をもうける。これは、足利家と改めて婚姻関係を結び、新田本宗家の地位を、足利家に頼ることによって守ろうとしたと考えられる。

新田政義の初見史料は、将軍、藤原頼経が大倉新御堂の上棟式に臨席した後、足利義氏の屋敷に立ち寄って、歓待を受けた時のもの。この時、新田政義は、足利義氏が、将軍への引き出物として献上する馬の引き役として登場する。

これは、新田政義が、足利義氏の一族の一人として、この行事に参加をしたものと思われる。

仁治2年(1241)1月でもまた、新田政義は、足利義氏が将軍に献上する馬の引き役を務めている。

 

足利義氏は、舅、新田政義は、婿、という関係になる訳ですが、本来、この、舅と婿の関係は、対等で、婿は、舅の家に取り込まれる存在ではなかったということ。

しかし、この時の、足利義氏と新田政義の関係は、義氏の方が上位にあり、政義は、その庇護を受ける関係にあったと思われる。

 

寛元2年(1244)6月、京都大番役にあった新田政義は、六波羅探題や、上野国守護だった安達泰盛に理由を告げず、突然、出家をしてしまう。

何の理由もなく、出家をすることを「自由出家」と言い、これは、幕府が禁止をしていたもの。

そのため、新田政義は、所領を没収され、失脚することになる。

 

新田政義の出家の理由は不明ですが、何らかの官職に就くことを希望し、それが幕府から拒否されたのが原因だった可能性がある。

これは、幕府の中枢に居た足利義氏の庇護が、十分ではなかったと考えられる。

 

新田政義の失脚で、子の政氏が、新田本宗家を継ぐことになる訳ですが、この「政氏」という名前は、足利本宗家の「氏」の字の偏諱を受けていて、これは、足利本宗家を烏帽子親に、足利本宗家の庇護を受けることを目的としたものと考えられる。

この新田政氏以降、基氏、朝氏と、三代にわたって、新田本宗家当主は「氏」を名乗る訳になりますが、これは、全て、足利本宗家を烏帽子親にして「氏」の偏諱を受けた訳ではなく、政氏の偏諱の後、基氏、朝氏は、自発的に「氏」を名乗った可能性もあるということ。なぜなら、朝氏は、後に、「朝兼」と改名している。

しかし、新田本宗家が「氏」を名前に入れるということは、新田氏が、足利一門であるということを自ら意識したものと考えられる。

 

13世紀半ば以降、新田一族の中に「氏」を名乗る者が増えて行くそうで、この頃から、新田一族の中に、自分たちは「足利一門」であるという意識が広まったのだろうということ。

 

新田義兼の弟、義季から始まる世良田氏では、義季の嫡男、頼氏から、「氏」の名乗りが始まる。この世良田頼氏もまた、足利義氏の娘を妻に迎えていた。

そして、世良田頼氏は、三河国の国司(三河守)に就任している。

これは、足利義氏が、新田政義よりも、世良田頼氏を、より重視していたと考えられる。

 

里見義成と山名義範は、足利氏と肩を並べる地位に居た訳ですが、里見氏では、平賀朝雅が討伐された時に、連座をして里見義成が、失脚。その後、「氏」を名乗る人物が出て来る。

山名氏に関しては、何か、不祥事があった訳ではないのですが、次第に、鎌倉幕府での地位を低下させ、遅れて「氏」を名乗る者が出て来るということ。

つまり、里見氏、山名氏もまた、自分たちの地位を守るため、自らを足利一門にあると位置づけたと思われる。

 

仁治元年(1240)1月、北条時房の死去に伴い、足利義氏は、安達義景らと共に、政所別当に就任する。

仁治3年(1242)、北条泰時が死去。その後、北条得宗家は、若い当主が続くが、足利義氏は、それを支えることになる。

宝治元年(1247)6月、宝治合戦で、足利義氏は北条方として活躍し、三浦氏を滅ぼす。

この時の恩賞で、足利義氏は、上総国の守護となる。

 

建長3年(1251)12月、足利義氏の嫡男、泰氏が、下総国埴生荘で、突然、出家。その理由としては、宝治合戦で滅ぼされた三浦氏、千葉氏の残党によるクーデター計画に、泰氏も関わっていたということが考えられる。

埴生荘は没収され、泰氏は失脚することになりますが、義氏には、影響は無かった。

足利義氏は、泰氏を切り、泰氏の嫡男だった家氏を廃嫡。家氏の異母弟、頼氏を、嫡男とする。

 

建長6年(1254)11月、足利義氏、死去。66歳。

 

足利義兼の死後、後を継いだ足利義氏は、北条得宗家との結びつきを、一層、強固にし、鎌倉幕府での足利家の地位を高め、確実なものにして行った。

一方、新田義重の死後、後を継いだ新田義兼は、足利家との結びつきを強くしようとしたものの、それは、上手く行かず、嫡男、義房の早世によって、後を継いだ政義は、まだ幼く、全面的に、足利家、足利義氏に頼らなければならない立場となってしまった。

しかし、新田政義は、足利義氏の庇護を十分に受けることが出来ず、同族の世良田氏にも遅れを取ることになり、その立場に失望をしてか、自由出家をし、失脚。

新田本宗家は、没落をしてしまうことになる。