徳川幕府が消滅した後、幕府艦隊は、どうなったのか。

この本から。

 

 

鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、大坂城を脱出し、江戸城に戻ります。

そして、徳川家の組織改革を行うことに。

幕府という「公」のものから、徳川家という「私」のものに、組織改革を行わなければならなかったということ。

当然、海軍もまた、その対象になる。

 

慶応4年(1868)1月28日、矢田堀鴻、海軍総裁、榎本武揚、海軍副総裁に就任。

2月25日、勝海舟、陸軍総裁から軍事取扱に転じ、徳川軍のトップとなる。

軍艦奉行だった木村喜毅は、海軍所頭取と役名を変えていましたが、矢田堀、榎本に実権を譲り、3月22日、勘定奉行に転じる。

3月6日、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が、甲斐国で、新政府軍と交戦し、敗れる。

3月9日、徳川慶喜の使者として派遣された山岡鉄舟が、東海道軍を率いる西郷隆盛との接触に成功。江戸総攻撃の停止を要請し、西郷は、そのための条件を提示する。

3月13日、江戸の薩摩藩邸で、勝海舟、西郷隆盛が会談。江戸城総攻撃の中止が決定される。

4月4日、降伏条件の一つとして、軍艦の全てを、一度、新政府に引き渡すことが命じられる。この頃、諸藩から幕府海軍に出役として出仕していた者たちが、次々と、引き上げていた。

4月11日、榎本は、艦隊を率いて、品川沖から館山沖に移動。これは、勝海舟、矢田堀の指揮を外れたもの。

4月17日、勝海舟の説得により、榎本と艦隊は、品川沖に戻る。

4月28日、観光、富士山、翔鶴、朝陽の四隻が、新政府に引き渡される。

結果、榎本の元には、開陽、回天、蟠龍、黒龍、千代田形(初の国産蒸気軍艦)の五隻の軍艦と、その他、蒸気運送船、洋式帆船が残される。

この頃、海軍総裁、矢田堀鴻は、出仕を止め、姿を見せなくなる。

5月15日、上野戦争で、彰義隊は、新政府軍と戦い、敗北。

5月24日、徳川家の処分が決定。徳川家達は静岡藩70万石となる。

8月9日、徳川家達、駿河に向けて、東京を出発。

8月19日、徳川家達の安全を見届け、榎本武揚は艦隊と共に、品川沖を脱走。仙台に向かう。

 

榎本艦隊は、開陽、回天、蟠龍、千代田形の軍艦、四隻。

蒸気運送船、長鯨丸、神速丸の二隻。

帆走運送船、咸臨丸、美加保丸の二隻。

合計、八隻。

他に、会津藩への物資の輸送のため、順動丸を越後方面に派遣。

庄内藩支援のため、長崎丸二番を出羽方面に派遣。

蒸気運送船、太江丸、帆走運送船、鳳凰丸の二隻を、仙台藩に貸与。

これらは全て、榎本の指揮下で行動していて、ここに徳川海軍は「艦隊」となったと言える。

 

品川沖から脱走した榎本艦隊は、銚子沖で暴風雨に巻き込まれ、開陽に曳航されていた美加保丸は、曳航索を断たれ、銚子の黒生浜で座礁し、沈没。

咸臨丸は、下田まで流される。

咸臨丸は、河津港に居た蟠龍に曳航され、9月2日、清水港に移動。

蟠龍は、9月8日、仙台に向けて出航するが、咸臨丸は、清水港で修理を続ける。

9月18日、新政府軍の艦が清水港に入る。咸臨丸は白旗を揚げて降伏するが、新政府軍の兵士は、咸臨丸に乗り込み、乗員20人余りが殺害される。

 

越後方面に居た順動丸は、5月24日、寺泊港で、新政府軍の艦と交戦。翌日、逃げられないと判断し、自ら座礁。自焼する。

 

銚子沖で散り散りとなった榎本艦隊は、8月24日から9月18日にかけて、順次、松島沖に入る。長崎丸二番、太江丸、鳳凰丸も合流。

 

9月23日、庄内藩支援のため、派遣されていた、千代田形、長崎丸二番は、酒田港で台風に巻き込まれ、長崎丸二番が、座礁、沈没する。

 

9月15日、仙台藩は、新政府に降伏。

10月12日、榎本艦隊は、同盟軍の兵士を収容し、折ノ浜を出航。宮古湾で薪を補給し、蝦夷地に向かう。榎本艦隊は、燃料の石炭を補給する手段を失っていたと思われる。

 

10月21日、榎本艦隊は、蝦夷地、鷲ノ木に到着。榎本軍は、蝦夷地に上陸する。

10月25日、回天、蟠龍が、箱館港に入る。陸戦隊が上陸し、弁天台場などを占領。

10月26日、大鳥圭介隊、五稜郭を占領。

10月27日、秋田藩の蒸気船「高雄」が、箱館に入港し、榎本軍に拿捕される。

11月、土方歳三隊、松前城攻略に向かう。回天、蟠龍が、交互に派遣され、砲撃で支援。

11月5日、土方歳三隊、松前城を攻略。

11月15日、館城が陥落。土方隊を支援するために、榎本は、開陽を派遣していたが、荒天のため、江差沖で座礁。回天と神速丸を、開陽の支援のために派遣するが、逆に、神速丸も座礁し、開陽、神速丸が、沈没する。

12月15日、榎本、五稜郭で、蝦夷地平定を宣言。沢太郎左衛門を開拓奉行に任命し、長鯨と共に、室蘭に派遣。

 

3月20日、新政府軍の甲鉄を奪おうと、回天、蟠龍、第二回天(高雄)の三隻が、箱館を出航。

3月22日、鮫港に入港。その後、荒天のため、三隻は離散する。

回天と第二回天は、合流するが、蟠龍は、合流出来ず、鮫港に引き返す。

回天、第二回天は、蟠龍との合流を諦め、宮古湾に向かう。しかし、第二回天の機関が故障し、離脱。回天、単艦での突入を決める。

3月25日、回天、宮古湾に侵入し、甲鉄に接触するが、薩摩藩の艦「春日」「戊辰」の二隻が反撃。さらに、甲鉄も反撃を開始し、作戦は失敗。

艦長の甲賀源吾が戦死し、荒井郁之助が指揮して、宮古湾を離脱。

第二回天は、箱館への帰投を試みるものの、機関の故障により、新政府軍の艦を振り切れず、船将の古川節蔵は、艦を羅賀浜に座礁させ、上陸をした後、降伏。

追撃をして来た、春日、甲鉄、陽春は、第二回天に砲撃を加えるが、無人であることを確認し、捕獲、焼却。

蟠龍は、鮫港を出て、宮古湾に向けて航行しているところ、宮古湾から撤退して来た回天と合流。蟠龍は、追撃をして来た甲鉄を振り切る。更に、回天の砲撃により、戊辰が損傷。回天と蟠龍は、共に、箱館に帰投する。

 

4月6日、新政府軍は、飛龍丸、豊安丸の二隻と、外国から雇った二隻の艦に分乗し、第一陣の2000人が、青森港を出て、蝦夷地に向かう。甲鉄、春日、陽春が、それを護衛。

濃霧のため、平館海峡で、碇泊。

4月9日、新政府軍は、乙部に上陸する。

新政府軍は、江差方面、二股口方面に別れて、進軍を開始。

同日、江差が、陥落。

4月12日、第二陣が、江差に上陸。

4月16日、第三陣が、江差に上陸。

4月17日、甲鉄、春日、陽春、第一丁宇、朝陽が、砲撃で新政府軍を支援し、松前城が陥落。

4月22日、木古内が陥落。

4月24日、新政府艦隊、箱館口に集結し、砲撃。榎本軍では、回天と弁天台場が応戦。

4月29日、二股口の土方歳三隊が、五稜郭に、撤退

同日、千代田形が、弁天台場付近で座礁。船将の森下弘策は、艦を放棄するが、満潮になり、千代田形は、自然に離礁。翌日、新政府軍に奪われる。

5月7日、甲鉄の砲弾が、回天の機関に命中し、回天は、航行不能となり、浅瀬に乗り、浮き砲台となる。

5月11日、新政府軍が、五稜郭に迫る。陽春が、大森浜の榎本軍を砲撃。一本木関門で、土方歳三が戦死。

飛龍丸、豊安丸から、箱館山に新政府軍が上陸。弁天台場が孤立する。

回天は、箱館市中が新政府軍に占領されたのを見て、乗員は、五稜郭に撤退。

甲鉄、陽春は、弁天台場攻撃を支援。第一丁宇、朝陽は、蟠龍と弁天台場と交戦。この時、蟠龍の撃った砲弾が、朝陽の火薬庫に命中し、朝陽は、大爆発を起して轟沈。これは、日本海戦史上、軍艦が、砲撃で、軍艦を沈めた最初の例となる。

しかし、蟠龍は、新政府軍の集中攻撃を受け、回天の近くに座礁させ、浮き砲台となるが、全弾を撃ち尽くして、乗員は、退艦。弁天台場に移る。

4月15日、弁天台場が、新政府軍に降伏。

4月16日、千代ヶ岡台場は、降伏を拒否して、陥落する。

4月18日、五稜郭、開城。榎本武揚、新政府軍に降伏する。

 

榎本武揚は、安政元年(1854)、箱館奉行だった堀利熙に従い、蝦夷地、樺太の巡視を経験しているそうですね。

そして、榎本武揚は、この蝦夷地を、幕府が無くなったことで、禄を失う旧幕臣たちに与えてもらい、蝦夷地の開拓、同時に、北方防衛の役割を与えてもらおうと考えていたようです。

しかし、それは、新政府に容認されるところでは無かった。

 

ここに、榎本艦隊の戊辰戦争は、終了します。