矢田堀景蔵(鴻)という人物。
長崎海軍伝習所が開設された時、永持亨次郎、勝海舟と共に、船将(艦長)候補として長崎に派遣をされた一人です。
矢田堀景蔵という人物には、以前から興味を持っているのですが、当然、この矢田堀、個人をテーマにした本は無く、幕府海軍を扱った本に、ほんの少し、名前が登場する程度。
この長崎海軍伝習所以来、矢田堀景蔵は、幕府海軍の運用面でのトップとなる訳ですが、何とも、影が薄い。
一体、どういう人物だったのか。
ネットで調べて見てみる。
文政12年(1829)、幕府小普請方、荒井精兵衛の三男として、江戸に生まれる。
ちなみに、後に、共に、幕府海軍で活躍をする荒井郁之助は、景蔵の兄、清兵衛の長男だそうです。
景蔵は、同じ小普請方の矢田堀家に養子に入る。
昌平黌で学び、学業は、かなり優秀だったようです。
嘉永3年(1850)、養父の死によって家督を継ぎ、二年後、甲府徽典館の学頭となったそう。
さて、なぜ、景蔵が、長崎海軍伝習所に、船将候補として派遣されることになったのか。
確かな理由は、分かりませんが、恐らく、学問優秀というのが、一つの理由だったのは確かでしょう。
ちなみに、永持亨次郎は、元々、御目見以下の身分から、自身の才覚を持って出世し、御目見以上の勘定格となっていたそうで、この長崎海軍伝習所への派遣は、その才覚が認められたということになるようです。
勝海舟は、そもそも、海軍設立の建白書で幕閣に目を留められた人物であり、蘭学者でもあったので、オランダ人と接するには、好都合だったということなのではないでしょうか。
そして、この矢田堀の従者として長崎に来たのが榎本武揚ということになる。
そして、一年後、江戸に軍艦操練所が設立され、その教授となるために、矢田堀は、他の伝習生一期生たちと共に、江戸に戻り、矢田堀は、教授方頭取として、軍艦操練所のトップに就任する。
この時、永持は、長崎奉行所に転出して海軍伝習を離れていて、勝海舟は、長崎に残ることになります。
なぜ、勝海舟が長崎に残ったのか。それは「出来が悪くて、居残りをさせられた」というのが、幕府海軍関連の本の著者の解釈のようですが、個人的には、それよりも、勝海舟自身、長崎に残り、オランダ人から、出来るだけ、多くのことを学ばなければならないという意思があったのだろうと推測します。
もっとも、勝海舟は、相当、船酔いに弱い体質だったようで、実地の伝習が、他の伝習生に比べて、遅れていたのは事実でしょう。
しかし、それは、次第に、克服をすることが出来たよう。
この江戸に戻る時には、矢田堀は、観光丸を指揮して航海をしています。
翌年、この観光丸が佐賀藩に貸し出される時には、再び、観光丸を指揮して長崎へ。
二ヶ月後、朝陽丸を指揮して、江戸に戻る。
文久元年(1860)、軍艦頭取に就任。小野友五郎、伴鉄太郎と共に、幕府海軍の中枢を担うことになる。軍艦の運用や、乗組員の訓練を主導することになる。
文久3年(1863)、軍艦奉行並に就任。
元治元年(1864)、勝海舟が軍艦奉行を罷免されるのと共に、矢田堀も罷免される。
慶応4年(1864)、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻ると、軍艦奉行並の矢田堀は、海軍総裁に任命される。矢田堀は、名実、共に、海軍のトップになる訳ですが、この時、徳川海軍は、実質上、海軍副総裁の榎本武揚の元にあった。
4月4日、徳川海軍の軍艦、全てを、一度、新政府側に引き渡すことを求められる。
4月11日、江戸城の無血開城が行われると、榎本は、艦隊を率いて、品川沖から脱走し、館山沖に移る。
この時、矢田堀は、海軍総裁としての職務を放棄し、江戸城にも、浜御殿の海軍所にも、姿を見せなくなったということ。
そして、陸軍総裁から、軍事取扱として、徳川家の陸海軍のトップにあった勝海舟が、事態に当たることになる。
上の本によれば、高級幕吏が、辞任を前提にして、出仕を取りやめ、自宅に籠るという事態は、幕府の慣例として、よく行われた行動だったそうです。
第二次長州征伐の時に、長州軍と対峙し、緊迫をしていた小倉口の幕府軍の中でも、木下利義という人物が、自分の意見が通らないことを不満に感じ、旅籠に引きこもって、出て来なくなる事態が起こったということ。
恐らく、この時の矢田堀の行動も、自分の意に従わない榎本武揚、以下、海軍への講義のため、辞職をするつもりで家に引きこもったということになるのでしょう。
さて、ここまで、矢田堀景蔵の経歴を見て、個人的に感じること。
恐らく、矢田堀景蔵という人物は、秀才であり、船将として、船の運用技術に長けていたというのは、疑いのないことでしょう。
しかし、幕府官僚として、また、一人の政治家としては、ほぼ、無能の人だったのではないかと感じるところ。
これは、勝海舟と比較をすれば、よく分かる。
勝海舟は、一人の「船乗り」である前に、一人の「政治家」だった。
つまり、勝海舟は、「今後の日本という国家を、どうして行くべきなのか」ということが、常に、頭の中にあり、幕府海軍の人間として、海軍の運用は、「新しい国家」を建設するための一つの手段でしかない。
そのため、咸臨丸で、アメリカから帰国後、一時、海軍を離れ、冷や飯を食わされていた格好の勝海舟は、海軍のトップに復帰すると、次々と、新しい計画を打ち出し、積極的な行動に出て、活躍をした。
もっとも、この時の勝海舟の行動は、失敗に終わる訳ですが。
しかし、矢田堀景蔵は、長年、幕府海軍のトップにありながら、新しいことは、何もしていない。
これは、矢田堀に、政治家、官僚としての能力が欠けていたことを示している。
そして、幕府が消滅し、江戸に迫る新政府軍と対峙をした時に、勝海舟、矢田堀景蔵という人物は、好対照に行動をすることになる。
矢田堀が、仕事を放棄して、家に引きこもったのに対して、勝海舟は、徳川家の全権を委任され、新政府と対峙し、陸軍、海軍の統率を図り、脱走を防ごうと奔走し、ついに、江戸城を無血開城に導く。
まさに、政治家、勝海舟の面目躍如と言ったところでしょう。
矢田堀景蔵は、徳川家と共に、静岡に移り、沼津兵学校の校長を務めた後、新政府に出仕をすることになりますが、海軍の人間としては活躍をすることが出来なかったようです。
船乗りとしての自負はあったでしょうから、鬱憤が、溜まっていたのではないでしょうかね。