江戸時代の末期、徳川幕府が設立した「幕府海軍」に関して、この本から。

 

 

この本。

幕府海軍の話が中心なのですが、古代の水軍から現代の海上自衛隊まで、幅広く、様々な話が詰め込まれていて、なかなか、面白いのですが、それら、全てを、紹介するには、なかなか、面倒な話になるので、幕府海軍の実務に関するものだけを、ここで、まとめて見たいと思います。

 

幕府海軍が、実質的に始まるのは、「長崎海軍伝習所」が設立をされてからということになります。

では、その「長崎海軍伝習所」が作られる経緯は、どうだったのか。

 

嘉永6年(1853)6月3日、アメリカの東インド艦隊司令官、ペリーが、艦隊を率いて、浦賀に来航します。

そして、日本に開国を求める訳ですが、幕府は、それに対して、世間に、広く意見を求めるという行動を取ります。

様々な人から、様々な意見が寄せられることになりますが、その中で、勝海舟の意見書が幕閣に注目され、無役の旗本だった勝海舟が、出世の糸口をつかむことになる。

 

幕府は、取りあえず、海岸に砲台を築くことで、外国船に対処をしようとする訳ですが、やはり、日本でも、外国と同じように、軍艦を備え、運用することが必要だという意見が出るのは当然のこと。

そこに、嘉永7年(1854)7月28日、蒸気軍艦「スンビン」を指揮して長崎に入ったオランダ海軍のファビウス中佐が、長崎奉行、水野忠徳に、洋式海軍の創設について提言をする。

この時、幕府から、オランダと蒸気船の購入について交渉するように命じられていた水野は、ファビウスと軍艦の購入や、オランダ人教官を日本に招くことについて、交渉を重ね、幕府は、安政2年(1855)から、長崎で洋式海軍の訓練を始めることを決定する。

 

安政2年(1855)6月9日、再び、蒸気船「スンビン」を指揮して長崎に入ったファビウスは、「スンビン」を、幕府に贈呈し、艦長のライケン大尉が、教官団長となり、日本人の教育にあたることになる。この「スンビン」は「観光丸」と命名される。

この頃、江戸では、長崎に送る人物の人選が進められていた。結果、37人が、長崎に派遣されることに。

この時、艦長(船将)候補となったのが、永持亨次郎、矢田堀景蔵、勝海舟の三人。この三人には、「御目見以上」という身分の共通点があります。

船将以外の士官要員には、鉄砲方、浦賀奉行所の与力、同心、韮山代官所の手代、手付、長崎奉行所の地役人などから選ばれたということ。

安政3年(1856)、伝習生徒の7人が、相次いで、江戸に戻されます。その補充に、9人が長崎へ。また、非正規の形で伝習に参加をしていた榎本武揚ら、3人が、加わることに。

安政4年(1857)、最初の伝習生が、課程を修了し、軍艦操練所の教官になるため、江戸に戻る。入れ替わりに、新たな伝習生、30人が、長崎に派遣される。

水夫と火夫(機関員)は、船手の水主(かこ)同心、浦賀奉行所、大坂町奉行所、長崎奉行所の水主から選ばれた。ちなみに、水主の出身地は、多くが、讃岐国塩飽諸島です。

 

長崎目付として海軍伝習所の事業を掌握していたのが、永井尚志です。永井が任期を終えると、岡部長常、次いで、木村喜毅が、その任務を受け継ぎます。

オランダ人教官は、ライケン大尉、以下、22人。

安政4年(1857)8月、幕府がオランダに発注していた「咸臨丸」が長崎に到着。

咸臨丸と供に、日本に来たカッテンディーケ大尉らが、ライケンらと教団が交代。

このオランダ人教官たちは、伝習生たちの日本人としての常識、感覚により、彼らを船乗りとして鍛えるのに相当に苦労をしたようです。

安政6年(1859)2月、長崎での伝習は、終了する。

 

安政4年(1857)5月、幕府は、築地の講武所の構内に「軍艦操練所」を開設。

教官には、長崎での伝習を終えた、矢田堀景蔵、以下、17人。

ちなみに、同じ船将候補だった永持は、長崎奉行吟味役に転出し、勝海舟は、伝習の延長で長崎に留まる。

同年7月、軍艦操練所での授業が開始される。

安政5年(1858)5月、洋式帆船「鵬翔丸」で江戸に戻った伊沢謹吾、以下6人。

安政6年(1859)1月、長崎海軍伝習所の閉鎖に伴い、勝海舟、以下4人が、「朝陽丸」で江戸に戻り、教官に加わる。

この軍艦操練所は、慶応2年(1866)、「海軍所」と名称変更。

慶応3年(1867)、浜御殿に移転し、幕府の終焉まで、幕府海軍の中枢となる。

 

安政6年(1859)11月、軍艦奉行並、木村喜毅に、アメリカ派遣命令が下ります。

これは、日米修好通商条約の批准のための遣米施設の派遣に伴い、もし、この使節が何らかの事情で役目を果たせない場合に、代わって、条約の批准に当たるため。

木村は、軍艦奉行に昇進。

木村は、人選に当たりますが、勝海舟は、木村に働きかけ、艦長として乗り込むことになる。この時、船を、観光丸にするのか、咸臨丸にするのか、朝陽丸にするのか、かなり揉めることになる。最終的に、咸臨丸に決定し、安政7年(1860)1月13日、木村、以下69人を乗せて、品川を出港。横浜に寄港し、ブルック大尉、以下11人を乗せる。

1月19日、咸臨丸、浦賀を出港。

太平洋では、荒天に巻き込まれ、咸臨丸の乗員である日本人は、ほぼ、役に立たず、ブルック大尉ら、アメリカ人が、咸臨丸を操艦。日本人の中では、中浜万次郎、小野友五郎が、アメリカ人と共に活躍し、ブルック大尉に賞賛されている。

2月26日、咸臨丸、サンフランシスコに入港。

乗員たちは、サンフランシスコで、様々なものを見聞し、閏3月19日、サンフランシスコを出航。帰路は、好天に恵まれ、日本人で操艦をし、5月6日、品川に入港する。

安政7年、万延元年(1860)3月3日、「桜田門外の変」が勃発。帰国した咸臨丸に浦賀奉行所の役人が入ろうとしたところを「アメリカに水戸人は居ない」と、勝海舟が追い返したとか。

 

この「桜田門外の変」の後、水戸人が、神奈川の外国人居留地(横浜村)を襲撃するという噂が立ち、閏3月、幕府は、軍艦、二隻を、神奈川港警備のために常駐させる体制を取る。これは、元治元年(1864)3月まで、三年間、続くことになる。

万延元年(1860)7月20日、イギリス船が、伊豆大島付近で座礁したという知らせを受け、神奈川港に居た朝陽丸(矢田堀景蔵)が、捜索、救助に向かうが、発見できず。26日、イギリス側から捜索の打ち切りを申し出たため、26日、神奈川港に戻る。

 

文久元年(1861)2月、ロシア軍艦「ポサドニック」が、対馬に侵入。

5月、幕府は、ロシアとの交渉のため、外国奉行、小栗忠順を、咸臨丸で、対馬に派遣。しかし、交渉は上手く行かず、江戸に戻る。

文久元年(1861)、小笠原諸島の調査団の派遣に咸臨丸(小野友五郎)が使用され、物資の輸送に朝陽丸が使用される。

文久2年(1862)6月、伊勢、志摩、尾張の三国の沿岸を、幕府が軍艦を派遣し、測量する。

この頃、幕府軍艦方の艦船は、実働任務にフル稼働をしていたということ。

必要な修理も、十分に受けることが出来ない状況だったそうです。

 

文久の軍制改革では、軍艦方から、軍艦奉行の井上清直、木村喜毅が評議に加わる。

組織、人事の改編、沿岸防備の構想が、話し合われる。

それまで、一部の役職を除いて「出役」で任命されていたものが、軍艦組に編入され、正規の役職となる。

これは、幕府海軍を恒久的な軍事組織にすることを決定したということ。

文久2年(1862)7月、従来の船手(水軍)を廃止し、軍艦組に編入。

人事制度でも、教授役頭取出役の矢田堀景蔵が、両番格軍艦頭取、伴鉄太郎、小野友五郎が、小十人格軍艦頭取に任命され、船将を務める士官に対応する正式な役職が創設される。

 

木村喜毅のこの時の提言は、幕府海軍の近代化を目指すもの。

各国の士官制度を模した15の階級と、各職務、俸給を示し、近代海軍に相応しい階級精度の確立を目指す。

また、家の当主や嫡男にこだわらず、能力次第で、士官に登用すること。

日本の沿岸防備について。

まず、江戸湾、大坂湾の防備に、フリゲート蒸気軍艦3隻、コルベット蒸気軍艦9隻を艦隊1組とし、蒸気運送船1隻、小型蒸気船30隻を、これに付属させる。4904人の人員を、これに当てる。

日本全国の沿岸防備に関しては、江戸を本拠地にした東海備、箱館を本拠地にした東北備、能登別所を本拠地にした北海備、下関を本拠地にした西北海備、長崎を本拠地とした西海備、大坂を本拠地にした南海備、これで、全国の沿岸防備を行うこと。

この六つの「備」の人員は、61205人。艦船は、370隻に及ぶ。

つまり、日本全土の沿岸防衛を幕府の軍艦方が担い、指揮系統を一元化させるということ。

諸藩には「兵賦」を課し、沿岸防備ための資金を徴収する。

これは、幕府海軍を、徳川家の私的なものから、全国組織へと移行させようというものでもあった。

 

この木村喜毅の海軍構想は、文久2年(1862)閏8月20日に開かれた会議の議題になりますが、この会議の中に、三日前に軍艦奉行並に任命されていた勝海舟が居た。

勝海舟は、会議の中で、この木村の海軍構想を、「実現不可能だ」として、強く否定し、この計画は、無くなってしまう。

文久3年(1863)8月、木村は、辞表を提出して、お役御免。

代わって、幕府海軍では、勝海舟が台頭することになる。

 

勝海舟は、咸臨丸の艦長としてアメリカから帰国後、軍艦操練教授方頭取から、蕃書調所の頭取助へ移動し、更に、講武所の砲術師範に移動していた。

つまり、一時、海軍からは離れていたということになる。

文久2年7月、軍艦操練所頭取へ復帰。閏8月には、軍艦奉行並に昇進すると共に、軍制掛に任命されていた。

これは、文久の改革で、要職に就いた大久保忠寛や、政治総裁職に就いた松平春嶽の影響があったと思われる。

そして、幕府海軍の実質的なトップとなった勝海舟は、海軍を主導する。

 

文久2年(1862)12月、勝海舟は、摂海防御の建白書を提出。

この時、兵庫に海軍操練所を置き、軍艦の半数を、そちらに置いて、「西海の軍隊」にするように提案する。

文久3年(1863)4月23日、将軍、徳川家茂が、順動丸で大坂から神戸を巡視。この時、艦上で、勝海舟から神戸に海軍局を置く必要性を説かれ、了承する。

翌24日、勝海舟は、海軍所、造艦所御取立御用、摂海防御向御用に任命される。

勝海舟は、神戸に海軍塾を開き、江戸の軍艦頭取、軍艦操練教授方が、一年交替で神戸に在勤することが定められる。神戸海軍操練所の創設です。

この神戸海軍操練所は、勝海舟の蘭学塾以来の門人、佐藤与之助を中心に運営される。

 

文久3年(1863)12月、将軍、徳川家茂の二度目の上洛に、海路が選ばれる。この時、諸藩が所有する洋式艦船にも、随伴が命じられた。幕府艦5隻、諸藩の艦7隻の12隻が参加。徳川家茂は、翔鶴丸に座乗。全体の指揮を、勝海舟が取ることに。

しかし、この時はまだ、全艦の指揮を勝海舟が取れるような状況には、まだ、なく、艦隊と呼べるようなものではなかったということ。

基本的には、それぞれの艦が、各自に運行をしていたようです。

 

これまで、幕府海軍では、基本的に、軍艦の購入、建造によって、艦船をそろえていましたが、勝海舟が文久2年12月に軍艦奉行並に就き、元治元年11月に軍艦奉行を解任されるまでの間、横浜や長崎などの開港場で売りに出されていた中古の商船11隻を購入している。これは、荷物の輸送や人員の移送に使用するため、取りあえず、艦船の数を確保するため。

 

元治元年(1864)3月、「天狗党の乱」が勃発。

9月8日、軍艦方にも派遣命令が下り、海上封鎖を行い、福井藩から売却されたばかりの「黒龍」が、那珂湊を砲撃。

 

元治元年(1864)6月、「池田屋事件」が勃発。神戸軍艦操練所生徒の望月亀弥太が死亡。

7月、「禁門の変」では、同じく、生徒の安岡金馬が、長州軍に参加。

これらのことから、勝海舟は、江戸に召還され、11月10日、軍艦奉行を罷免される。

元治2年(1865)3月、神戸海軍操練所の廃止が決定される。

 

慶応2年(1866)5月、第二次長州征伐に備え、軍艦方から、富士山、翔鶴、長崎丸二番、太江丸、旭日丸の5隻が、29日までに、順次、安芸国宇品港に集結。

翔鶴、長崎丸二番は、老中、小笠原長行を小倉に送り、長崎丸二番は、そのまま、小倉に残る。

富士山、翔鶴、太江丸、旭日丸は、大島口に布陣。

6月7日、軍艦の船将たちは、厳島に上陸し、陸軍方と軍議。翌日に大島口の攻撃開始が決まる。

8日、富士山、翔鶴が、久賀を砲撃。太江丸は、松山藩兵の上陸を砲撃で支援。

9日、富士山が、久賀を砲撃。しかし、陸軍方との連携が上手く行かず、前島で軍議。

11日、富士山、太江丸が、安下庄を砲撃し、松山藩兵を支援。翔鶴、旭日丸が、久賀を砲撃し、陸軍方を支援。歩兵隊が上陸する。

15日、長州軍が大島に上陸。

16日、陸軍方を砲撃で支援。しかし、劣勢は覆せず、18日、大島からの撤退が決定。

19日、陸軍方、松山藩兵の撤退を砲撃で支援。

20日、小倉口での苦戦により、各艦の小倉への回航を命じる。

23日、富士山、沓尾沖に到着。

25日、翔鶴、沓尾沖に到着。

26日、小倉口での戦況の説明を受け、小倉口への回航を要請される。

28日、富士山、翔鶴、小倉口に到着。

7月9日、太江丸、沓尾に到着し、小倉口に向かう。

3日、長州軍が、幕府軍への攻撃を開始。富士山、翔鶴は、彦島と大里への砲撃を開始。富士山は、交戦中に百斤砲が暴発。

17日、長崎で購入した「回天」が、小倉口に到着し、翔鶴と交代する。

27日、再び、長州軍が攻撃を開始。富士山、回天、飛龍丸が、応戦する。

30日、幕府軍を構成していた熊本藩の藩兵が、突如、撤退する。

8月1日、大坂で将軍、徳川家茂が死去したことを知った小笠原長行は、富士山に乗り込み、小倉を脱出。回天も、それに同行。諸藩の藩兵も、次々と撤退し、小倉口の幕府軍は崩壊する。

 

慶応2年(1866)7月、軍艦操練所は、海軍所に改称。

徳川家茂の死去により、徳川慶喜が、徳川家の当主となる。

10月、主力艦の船将となる軍艦頭、小型艦の船将、または、主力艦の先任士官となる軍艦役などが、順次、新設され、階級が決定、細分化されて行く。

ちなみに、初代、軍艦頭に任命されたのは、矢田堀景蔵。

軍艦役となったのは、肥田浜五郎、以下10名。そのほとんどが、御目見以下で、実際の任務に階級が追いついた格好。

また、幕臣としての格式とは別に、技量に応じて、一等、二等、三等の等級が付与される。

そして、家の当主、嫡男以外の人物からの登用も拡大し、幕府海軍は、近代海軍に近づく。

 

慶応3年(1867)10月14日、将軍、徳川慶喜が大政奉還。

12月25日、江戸の薩摩藩邸を焼き討ち。藩邸に居た薩摩藩士と浪人たちは、品川沖に停泊していた薩摩藩の「翔鳳丸」に乗り込み、脱出。

江戸湾を警戒中だった回天と咸臨丸(この頃、機関を降ろし、帆船になっていた)が、翔鳳丸を追跡し、砲撃を加える。翔鳳丸は、多数の命中弾を受けながらも、日没頃に観音埼で回天を振り切る。1月2日、翔鳳丸は、兵庫沖に到着。

 

慶応4年(1868)1月3日、「鳥羽、伏見の戦い」が始まる。幕府海軍は、それ以前から輸送任務に従事していて、この時、軍艦奉行の矢田堀鴻(景蔵)、以下、開陽、富士山、蟠龍、翔鶴、順動丸、美加保丸が、大坂湾に居た。

薩摩藩邸焼き討ちの報が海軍方に届くと、蟠龍が、薩摩艦の平運丸を砲撃。平運丸は兵庫港に逃れ、開陽、以下、5隻の幕府艦が、兵庫港を封鎖する。

1月3日、鳥羽、伏見の戦いが始まると、兵庫港を封鎖していた軍艦は、薩摩藩の大坂藩邸攻撃に合わせて、天保山に移動。兵庫港に居た薩摩藩の春日丸、翔鳳丸、平運丸は、4日、早朝に出港。薩摩艦の出港に気がついた榎本武揚は、開陽で追跡し、春日丸、翔鳳丸を阿波沖で補足。開陽と春日丸は砲撃戦を行うが、双方、命中弾は、ほぼ無く、春日丸は優速を生かして逃走し、6日、鹿児島に入る。平運丸は、機関の故障に見舞われ、20日に鹿児島に到着。翔鳳丸は、阿波国由岐浦で座礁の末、自焼。

1月6日、鳥羽、伏見での劣勢を知った徳川慶喜は、大坂城を脱出。天保山沖に居たアメリカの軍艦に間違えて乗り付け、そこで一夜を明かした後、開陽に乗り込み、江戸への出航を命じる。この時、軍艦奉行並の矢田堀、船将の榎本は、上陸中で、開陽に居た軍艦頭並、沢太郎左衛門は、慶喜の命令を拒否するが、拒み切れずに出港する。11日、開陽は江戸に到着。

徳川慶喜の消えた大坂城は混乱に陥るが、小野友五郎は、実質的に海軍方を取り仕切る榎本と会談し、8日、金奉行を指揮して、大坂城の正金を翔鶴、順動丸に運び込む。両艦は、10日、一旦、兵庫港に移動。11日、紀州藩の和歌浦で、正金を陸揚げし、負傷兵を乗せて出港。13日、江戸に到着する。

 

江戸に戻った徳川慶喜は、軍事組織を改編。

兵科と機関科が、外国の海軍と同様に分科され、階級の規準が、個人の能力に一本化される。

1月19日、階級の改定に基づき、士官、71名の昇級を求める人事案が提出され、2月16日に承認される。

また、幕府艦船に乗り込む水夫、火焚は、讃岐国塩飽諸島出身者となっていたものを、改変し、地域に限定することなく、採用することに。

 

ここに来て、ようやく、軍艦というハードの面だけではなく、人事の面でも、幕府海軍は、近代海軍に成長したと言えるようですが、すでに、徳川幕府は消滅し、幕府海軍は、徳川家の私的な海軍となっていた。

そして、徳川海軍の命運も、残り少ないものとなっている。

 

この徳川海軍の戊辰戦争については、また、改めて。