治承4年(1180)8月17日、源頼朝が、伊豆で挙兵をします。

この時の、新田義重、足利義兼の行動が、その後の、新田氏、足利氏の立場を、大きく決定づけることになります。

 

 

11月12日、佐竹秀義を討って関東を支配下に置いた頼朝は、鎌倉に戻り、麾下の武士たちから「鎌倉の主」に推戴されます。この時、新造御亭に入る頼朝に供奉する武士の一人に足利義兼の名前があります。これが、足利義兼の初見史料で、すでに頼朝の側近の一人だったことが分かる。

翌年2月、足利義兼は、北条政子の妹と結婚。義兼の母と頼朝は、従兄妹の関係に当たるそうです。

 

新田義重は、久安5年(1149)頃から、在京活動をしていて、仁安年間(1166~1169)には、平重盛の家人となっていた。

治承3年(1179)、平重盛の死去後、平宗盛に仕えていましたが、東国での源頼朝、甲斐の武田信義、信濃での源義仲らの挙兵の中、新田義重は、この反乱に対処するため、東国への下向を命じられ、京を離れる。

治承4年(1180)8月28日、新田義重は、本拠地の上野国八幡荘に入る。この頃、武田信義、源義仲、源頼朝らは、平家方の軍勢を、次々と、打ち破っていた。

東国での平家方は、あきらかに劣勢にあり、新田義重は、上野国八幡荘の寺尾城で、「故陸奥守(源義家)の嫡孫」を称して、兵を集め、自立の動きを見せた。

つまり、新田義重は、源頼朝、源義仲、武田信義らと同じく、関東で自立をし、彼らに対抗しようと考えたと思われる。

 

この足利義兼、新田義貞の、源頼朝への対応の違いは、どこから来たのでしょう。

 

足利義兼は、足利義康の嫡男として京都で生まれたと考えられる。

八乗院に蔵人として仕えていたことが確認できるそう。

兄の義清もまた、八乗院に判官代として仕えていたそうで、義清は、新田義重の猶子となったと言われる。

ちなみに、義清は、「矢田」を名字としたようですが、この「矢田」が、どこなのかは、諸説あるそうで、この本では、丹波国何鹿郡矢田郷ではないかとしている。

保元2年(1157)5月、父、義康が死去。義兼は、下野国足利荘を受け継ぎ、義清は、足利荘に隣接する梁田御厨を受け継いでいた。

治承4年(1180)5月、以仁王が挙兵。この時、義清は、以仁王に与同していたという嫌疑をかけられていたよう。その後、義清は、しばらく、史料から消えるが、寿永2年(1183)7月、源義仲が京都に侵攻する時、その同盟者として史料に登場する。

以仁王の挙兵に与した嫌疑をかけられた義清は、京都を離れ、下野国梁田御厨に入ったと考えられる。そして、源義仲が信濃国から上野国に侵攻してきた時、義仲に合流をした可能性がある。

兄、義清が下野国梁田御厨に入ったことは、弟、義兼の下野国足利荘の権益を脅かしたと考えられ、義兼は、この義清に対抗するために、源頼朝に帰順をしたと考えられる。

足利義兼は、源頼朝が、常陸国佐竹義秀を討ち、鎌倉に帰還した11月上旬の頃に、頼朝に帰順をしたと考えられ、その少し前、10月下旬の頃、上野国に侵攻した源義仲に義清が合流したという情報を得たと思われる。

 

一方、新田義重は、藤原忠雅の支援を受け、順調に京都での出世を続けていた。

藤原忠雅は、後白河上皇の近臣。新田義重は、後白河の女御、琮子に仕えていたことが知られている。また、近衛天皇の中宮、呈子にも仕えていたそうで、これらは、忠雅の推挙があったからと思われる。

新田義重が、藤原忠雅と関わりを持ったのは、在京、間もなくの頃に結婚をした妻の父、大和源氏の源親弘の縁と考えられるよう。

藤原忠雅は、平清盛の娘を、息子、兼雅の妻に迎え、平家と親密な関係にあった。

この忠雅を通じて、新田義重は、平家の家人となったと考えられる。

新田義重は、仁安年間に、平重盛から「足利庄領主識」を与えられていて、藤姓足利氏の権益を奪ったものと考えられる。このことから、新田義重は、足利義兼の足利荘にも侵攻しようとしていたと思われる。

新田義重は、京都でも順調に出世を重ね、関東でも、着実に権益を広げつつあった。

つまり、新田義重には、源頼朝に帰順する理由が、何も無かったということ。

そのために、自己の権益を、更に、拡大しようと、自立の道を選んだのでしょう。

 

つまり、足利義兼、新田義重の、源頼朝への対応の違いは、足利義兼には、自己の権益を守るため、叔父の新田義重や、兄の義清への対抗手段として、源頼朝に頼る必要があったということ。

そして、新田義重は、京都で順調な出世を続け、関東での権益の拡大も順調だったため、源頼朝に帰順する必要性が無く、むしろ、源頼朝の麾下に入ることは、デメリットの方が大きいと判断をしたと考えられる。

 

しかし、源頼朝の勢力拡大は、新田義重の想像を超えて、急速に強大化をしてしまった。

歴史の先は分からないとは言え、その後の新田氏にとって、大きな判断ミスだったということになるのでしょうね。