良寛が、子供の頃から「論語」を熟読していたことは、逸話にも出て来ます。
そして、良寛が、大人になってからの逸話。
良寛が、ある時、「論語」の中の、ある一節を、「これは、どういう意味だろうか」と、ある人に聞いたそうです。
そのある人は、「それは、有名な本に、ちゃんと解釈が書いてありますが、知らないのですか」と、良寛に言ったそうです。
すると、良寛は、「自分は、そういうものは、読まないから」と言ったそう。
この良寛の考えは、個人的に、よく分かる。
僕は「論語」には、ほぼ、興味が無く、以前、何冊か「論語」の本を読んだことがあるのですが、全く、記憶の中に残っていない。
個人的に、興味があるのが、「老子」「孫子」の二つで、特に、「孫子」に関しては、解釈本、解説本のようなものが、たくさん、出版されているようですが、どれも、つまらない。
基本的には、原文、書き下し文、日本語訳、そして、語句の説明があれば十分なところで、後は、自分で、色々と考えてみるのが面白い。
その点では、やはり、岩波文庫が、丁度、良い。
以下、「老子」について、書きますが、上の本を参考にするものの、個人的な解釈です。
決して、正しい「老子」の解釈では、ありません。
「老子」第一章。
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず。
名、無きは、天地の始め。
名、有るは、万物の母。
故に、常に、欲無くして、以て、その妙を観、常に、欲有りて、その徼(きょう)を観る。
この両者は、同じきより出でて、しかも名を異にす。
同じきを、これ、玄と言う。
玄のまた玄、衆妙の門。
さて、この中の「道」とは、「老子」の思想の根本概念です。
この「道」は、この世の、あらゆるものの根源であり、この世の、あらゆるものは、この「道」から生まれ、この「道」に従うことにる。
しかし、この「道」とは、これが「道」であると分かるようなものは、「道」ではありません。
つまり、「道」という「名」で呼べるようなものは、真の「道」ではないということ。
この「道」という「名」が消えた先にこそ、本当の「道」があり、天地の全ては、そこから生まれることになる。
そして、その「道」から生まれたものに「名」がつき、「名」がついて、初めて、私たちは、それを認識することが出来る。
私たちは、普通、物事を認識する時には、その「名」を重視します。
この「名」とは、いわば、物事の表面に現れたもの。
そのため、物事の「名」に捕らわれていては、真実は見えません。
では、物事の「名」に捕らわれないようにするには、どうすれば良いのか。
それは、「欲」を捨てることです。
つまり、「名」に捕らわれるということは、「欲」に捕らわれているのと同じ。
「欲」に捕らわれていては、物事の「表面的な部分」や「自己の偏見」によってしか、物事を観ることは出来ません。
中国から日本に伝わった仏教の「禅宗」は、「老荘思想」の影響を強く、受けています。
上に書いた内容は、まさに、「禅」の思想と同じこと。
常識や偏見、欲に惑わされず、真実を観るためには、どうすれば良いのか。
禅僧は、そのために修業をしているのでしょう。