長谷川町子さんの漫画「サザエさん」。
この雑誌を読んでいたところ、面白い話が、一つ。
それは「羊羹」について。
この「羊羹」という漢字。
日本語に訳すと「羊のスープ」ということになるそうですね。
これは、以前、どこかで見て、知っていましたが、今の「羊羹」は「羊のスープ」とは、ほど遠い食べ物。
なぜ、そうなってしまったのか。
元々、「羊のスープ」は、中国の御馳走だったそうです。
それが、鎌倉時代から室町時代にかけて、日本から中国に留学した禅僧が、この「羊のスープ」を、日本に持ち込んだそう。
しかし、禅僧は、肉食は厳禁。そのため、小豆や小麦粉といった植物性のもので、「羊の肉もどき」のものを作って、食べていたと考えられる。
それが、武家や公家に広まるにつれて、スープと具を、別々にして、具にスープをかけて食べるようになったそう。
その後、スープ自体が、無くなってしまったと考えられる。
16世紀の半ばになると、羊羹は、お菓子として登場するようになる。
しかし、その姿や味の記録は乏しく、どう変化をして行ったのかも、明らかでは無いということ。
しばらくは、お菓子と料理、両方の羊羹が存在をしていたようですが、17世紀になると、料理の羊羹は、姿を消す。
江戸時代初期の羊羹は、小豆、小麦粉、葛粉、砂糖などを混ぜ、蒸してから、ついたり、こねたりして、成形したもの。
この頃の羊羹は、入り組んだ浜辺を意匠化した州浜形にすることが多かったそうです。
そして、これを簡略化し、生地を枠に流して、蒸して固め、四角く切って仕上げた、今の蒸し羊羹に近いものが生まれる。
更に、羊羹の中に、さらに柔らかく、水分の多いタイプが生まれ、そのバリエーションとして、アンを寒天で固めた水羊羹が誕生する。
この水羊羹の製法から、寒天入りの生地を練り上げて固めた、練り羊羹が誕生するそうです。
この「練り羊羹」が、18世紀後半以降、その弾力となめらかな食感で、日持ちもするので、羊羹の主流となったそうです。
以上、「羊のスープ」から、現在の「ようかん」への進化です。
なかなか、面白い。
さて、なぜ「サザエさん」で、「羊羹」なのか。
漫画の中で、サザエさんが、客に貰ったお土産の箱を、てっきり、羊羹だと思い込んでしまう話があります。それに絡めての解説でした。
明治時代以降、鉄道が発達すると、持ち運びに便利で、保存性の高い「羊羹」が、お土産の定番となったそうです。
そして、全国各地で、その土地の名物の「羊羹」が誕生することにもなる。
僕が子供の頃、羊羹を、よく、おやつとして食べていた印象がある。
親が買って来たものだったのか、それとも、お客さんが、お土産として持って来たものだったのか。
そして、いつの頃からか、家で羊羹というものを、全く、見かけなくなりましたね。
そして、羊羹を食べることも無くなった。
お土産として、羊羹を持って来る人が、居なくなってしまったということなのでしょうか。
少し、話がズレますが、今から10年ほど前ですかね、町のケーキ屋さんが、次々と倒産をしているという報道がありました。
これは、他人の家を訪ねる時には、手土産として近くのケーキ屋で、ケーキを買って持っていくという習慣が、無くなってしまったのも一因だという話でした。
家の近くにも、子供の頃から、ケーキ屋が一件、あったのですが、その10年近く前に、閉店をしてしまいました。
さて、個人的に、好きな羊羹が「高瀬舟」です。
知っていますかね。
高瀬舟の格好をした羊羹です。
上の部分が、ざらざらとしていて、少し堅く、とても、食感が良い。
この羊羹「高瀬舟」は、岡山県真庭市(旧落合町)の銘菓、土産菓子で、「落合羊羹」の一種だそうです。
この「高瀬舟」というもの。
底の浅い川などで使用するためにつくられた、吃水の浅い川船のこと。
近代以降に普及したタイプの高瀬舟は、今の岡山県の高梁川、旭川、吉井川で使われ始めたものが、全国に広まったそうです。
羊羹「高瀬舟」が生まれた落合町には、まさに高梁川がある。