滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」。
今から30年ほど前に、ダイジェスト版の小説を読んだのですが、ほぼ、記憶の中に残っていないので、改めて、この本を読了。
物語の内容は、また、改めて紹介をすることとして、この本から、「南総里見八犬伝」の周辺事情について。
まずは、「滝沢馬琴」という名前について。
この名前の表記には、大きく問題があるということのよう。
滝沢馬琴は、本名を、「滝沢興邦」と言います。
そして、ペンネームが「曲亭馬琴」です。
つまり、「滝沢」が本名で「馬琴」はペンネーム。この二つを合わせた不自然な呼ばれ方をしている。
なぜ、このようなことになっているのか。
それは、明治時代に「夏目漱石」や「森鴎外」のように、姓を本名、名をペンネームで表記する作家が居たので、滝沢馬琴も、そう表記されたのではないかという話。
次に、「南総里見八犬伝」は、どれほど、読まれていたのか。
江戸時代も後半になると、寺子屋が普及し、市民の識字率も向上。それに合わせて、多くの書物が、出版されることになる。
しかし、当時、本の製作には、膨大な手間がかかり、本の値段も、かなり高価なものだった。
「南総里見八犬伝」は、一度に5冊前後が発売され、値段は、20匁前後の値段だったそうです。今の値段に換算すると、2万円くらい、または、数十万円だった可能性もあるようです。
これでは、とても、庶民に変えるはずもない。
では、本は、誰が買っていたのかと言えば、富裕層の他は、貸本屋です。
ちなみに、「南総里見八犬伝」の新刊は、500部程度が売れただけだそうです。
再版では、100部から200部。思ったよりも、相当、少ないですよね。
そして、本が店頭に並んだのは、江戸と大坂くらいだったそう。
貸本屋は、一回、10日程度で、本を貸し出していたそうですね。
江戸時代の本には、様々なジャンルがあり、「南総里見八犬伝」は「読本」というジャンルになる。
この「読本」というジャンルは、いわば、本格小説のようなもので、本のジャンルの中でも、特に高価で、発行部数も少なかったそうです。
ちなみに、「草双子」というジャンルの本は、数千部から1万部以上も出版され、庶民でも買えるほど、安かったそうです。
また、実は、「里見家の八犬士」というのは、馬琴のオリジナルではないそうですね。
享保2年(1717)年に刊行された本の中に、「里見八犬士」の記述があり、八人の名前が記されているそう。
この八人が、どういう人物なのかという記述はなく、ただ、名前が記されているだけのようですが、馬琴は、それをヒントにしたのではないかということ。
さて、この「南総里見八犬伝」は、江戸時代はもちろん、明治時代になっても、再版が続けられていたそうです。
それだけ、人気が高かったということ。
しかし、この「南総里見八犬伝」の評価を一変させたのが、明治18年(1885)に、坪内逍遙という人物が、「小説神髄」という本で、この「南総里見八犬伝」を「このようなものは小説ではない」と酷評したこと。
そして、その評価は、今でも、世間に影響を与えている。
これは、「古今和歌集」に関しても同じで、それまで、日本の和歌集の最高峰であったはずの「古今和歌集」は、明治時代、正岡子規が酷評をしたことで、その評価が貶められ、その影響は、今でも続いている。
とても、残念なこと。
この「南総里見八犬伝」は、とても長い、長編小説。
文字数に換算すると、あの「源氏物語」の二倍の量になるそうです。
そして、未だに、「南総里見八犬伝」の全てを現代文に訳した、完訳本というものは、存在しないそう。
原本は、全106巻。
一年に一回の新刊の発売が基本だったようですが、年に二回、出版されることもあれば、数年に一回の時もあったそう。
一回に刊行されたのは、3冊から6冊。
完結までに、28年もかかっている。
馬琴が、途中で、失明し、口述筆記によって完成させたのは、有名な話。
物語については、また、改めて。