今日は、児島湾大橋の下に車を置き、「三幡港跡」まで歩いてみました。

 

 

 

上、児島湾大橋です。

この橋が出来たのは、僕が、小学生の頃。

 

海岸に沿って歩くと、まず、見えたのが「明治天皇上陸記念碑」です。

何のことか、ネットで調べてみる。

 

明治天皇は、明治18年、山口県、広島県、岡山県に行幸をしたそうですね。

8月4日に、広島の宇品を出港。

8月5日、夕刻に、犬島の沖合で、大型船から小型船に乗り換え、更に、飽浦沖で、岡山県が新調した蒸気船に乗り換え、この三番港に上陸をしたそうです。

その時の上陸を記念した碑でしょう。

 

その石碑の近くに「三幡港の跡」の石碑がありました。

 

石碑の傍らには、三幡港の説明版があります。

 

この三幡港は、岡山の中心部にある、旭川の京橋港の外港として栄えたそうです。

明治36年には、山陽鉄道が、岡山、高松を結ぶ連絡航路を開設。

岡山の京橋港から旭川を船で下り、三幡港へ。この三幡港の沖から、高松への連絡船が出ていたそうです。

しかし、旭川は、年々、堆積物で、底が浅くなり、満潮時以外には、運行に支障が出るようになる。

欠航の日は、100台を超える大量の人力車で、三幡港まで人を輸送していたそうですが、明治43年(1910)、宇野線の開業と、宇野、高松航路の開通により、三幡港からの連絡船は、廃止される。

 

しかし、何とか、三幡港の地位の低下を防ぎたいと建設されたのが「三幡鉄道」です。三幡鉄道は、軽便鉄道で、三幡駅から、岡山市内の桜橋駅を結んでいたそう。

これには、桜橋近くにある「岡山ガス」という会社に、石炭を運ぶ手段にするという意図もあったようです。

 

この三幡鉄道の三幡駅だったのが、こちら。

 

 

この建物が、かつて、三幡駅の駅舎だったようですね。

今は、釣具屋と、三幡鉄道の資料館になっているよう。

 

建物の隣には、「三幡軽便鉄道発祥の地」という石碑があります。

 

宇野線、宇野港が生まれたことで、それまでの役割が奪われ、土地の繁栄が奪われる危機感から生まれたのが「三幡鉄道」のようですが、これは、下津井が、「下津井電鉄」を作ったのと同じ理由、経緯ですよね。

しかし、どちらも、上手く行かなかった。

そして、今では、瀬戸大橋が出来たことにより、宇野の繁栄が奪われる結果となっているのは、時代の流れ。

 

さて、この三幡鉄道の建物から、今度は、海岸を離れ、裏側の道を回って児島湾大橋の方に戻っていると、今度は、このようなものが。

 

中央が「馬頭観音菩薩」、左が「馬塚」、右が「宗谷神社」となります。

 

「宗谷神社」とは、何だろうと思って、ネットで調べてみましたが、出て来ない。

備前国に、一つだけ「宗谷神社」という神社があるようですが、その神社と、何か、関係があるのでしょうかね。

 

さて、なぜ、ここに「馬頭観音菩薩」「馬塚」があるのか。

 

かつて、ここには、競馬場があったそうですね。

ネットで調べると、原尾島競馬場が老朽化をし、その移転の地として、中国電力の三幡発電所の石炭カス捨て場だった土地が選ばれ、そこに競馬場が作られたということ。

昭和28年(1953)のことです。

しかし、競馬の人気が低迷し、昭和33年(1958)には、競馬場は廃止をされることになる。

 

土地の歴史の名残が、色々と残っていますね。