前回に続き、この本から。

 

 

瑜伽大権現と金毘羅大権現の「両参り」について。

両方をお参りしたことが記されている「紀行文」として、以下、六つのものが紹介されていました。

 

「筑紫紀行」

「肥前鹿島様御国行日記」

「神路山詣道中記」

「西遊草」

「金毘羅参詣道中日記」

「航薇日記」

 

「筑紫紀行」は、尾張の商人、吉田重房が、40歳で家督を譲った後、享和元年(1801)に、九州に旅をした時の記録。

「備前鹿島様御国行日記」は、大坂の町人、平野屋武兵衛が、弘化3年(1846)に、商用で肥前国鹿島藩に行った時の記録。

「神路山詣道中記」は、下野国の名主ら、12人が、嘉永元年(1848)に、約80日間、各地を旅した時の記録。

「西遊草」は、勤王の志士として有名な清河八郎が、安政2年(1855)に、親孝行のため、母親と下男と共に、各地を旅した時の記録。

「金毘羅参詣道中日記」は。掛川宿の近隣に住む6人が、安政3年(1856)に、金毘羅詣をした時の記録。

「航薇日記」は、明治2年、成島柳北が、約1ヶ月の旅行の様子を、自らが出版をしていた文学雑誌「花月新誌」に連載をしたもの。

 

さて、この「成島柳北」という人物について。

 

幕臣で、幕府陸軍騎兵隊に関わりがあったこと。そして、明治時代には、ジャーナリストとして活躍をしたことは、知っていましたが、ネットで、どのような人物なのか、調べてみる。

 

天保8年(1837)、武蔵国浅草の松本家の三男として生まれる。

ちなみに、成島柳北の兄で、次男だった泰次郎は、森家に養子に入り、その孫が、あの俳優の森繁久弥だそうです。

柳北は、代々、奥儒者をつとめる成島家に養子に入る。

 

8代目奥儒者となった成島柳北は、安政元年(1854)、将軍侍講見習、安政3年(1856)、将軍侍講となる。

しかし、文久3年(1863)、将軍侍講を解職され、この頃、福沢諭吉らと交流を持ち、西洋の事情や学問を学ぶ。

慶応年間には、騎兵頭、外国奉行、会計副総裁を歴任。

慶応4年(1868)、養子の信包に、家督を譲り、隠棲。

 

明治5年(1872)、東本願寺法主の欧州視察随行員として、欧米を巡る。

この時、岩倉使節団として欧州に居た岩倉具視、木戸孝允らと知り合う。

特に、木戸孝允と親交が深かったそうで、帰国後、木戸から文部卿への就任を求められるが、拒否。

ちなみに、この欧州で、共済制度を知り、帰国後、安田善次郎と共に、生命保険会社を設立する。今の、明治安田生命です。

 

明治7年(1874)、「朝野新聞」を創刊。

更に、文芸雑誌「花月新誌」を創刊し、ジャーナリスト、文学者として活躍。

明治17年(1884)、病気により死去。満47歳だったそうです。

 

なかなか、興味深い人物ですよね。

 

さて、上に挙げた紀行文の中で、最も、由加山の状況を詳しく記しているのが、成島柳北の「航薇日記」です。以下、その内容を紹介します。

 

3月25日、妹尾に到着。

4月4日、妹尾を出発。備前、備中の境を船で進む。植松の渡しを通って、陸路で、尾原へ。尾原で、小倉織真田紐を買い、山道を進んで由加に入り、門前の旅館、料理屋である「西屋」で、一息。田の口に下りた頃には、日が暮れていて、天候が悪く、船が出ないため、藤屋で一泊。

4月5日、夜になっても天候は回復せず、船に乗り込んだものの、そこで一泊。

4月6日、激しい風の中、船は出発。何とか、丸亀に到着。金毘羅に行き、虎屋で宴会をし、一泊。

4月7日、丸亀を出発し、船で田の口に戻る。日暮れ頃に、由加門前の西屋で一泊。

4月8日、瑜伽にお参りをし、尾原、植松経由で、妹尾に戻る。

 

更に、詳しく。

 

妹尾を出発した成島柳北の一向は、植松の渡しを過ぎて尾原まで田地を歩き、尾原で小倉織真田紐を作って売る家に立ち寄り、購入する訳ですが、その家のお婆さんの頑固さに驚いたということ。

尾原から由加への山道は、渓水が流れ、石菖が多く茂っていたということ。幾重にも段々畑が続き、山腹まで稲を作っていることに驚いている。

由加に到着をすると、松が多く、珍しい石がそびえ立ち、ツツジや蘭が多く茂っている様子を賞賛。

 

門前町の賑やかさを記し、瑜伽参拝の後、西屋に入る。

酒は美味く、魚は新鮮。鶴香という芸者の歌や踊り、太鼓の素晴らしさを記し、山奥に、このような繁華街があることを意外に感じているということ。

 

西屋を出た柳北らは、峠の村(現、児島白尾辺り)を通過し、田の口に入る。

田の口から讃岐の金毘羅に向かい、また、田の口に戻って来る。

田の口では、藤屋の主人に、熱心に誘われたが、一度、泊まっているため、誘いを振り切って逃げたということ。

また、白尾から由加に向かうが、途中で、瀬戸内、四国の風景に感動。

 

日暮れ時に門前町に到着した柳北らは、再び、西屋へ。

鶴香、三吉、栄次、阿愛ら、芸者を呼び、宴会。鶴香は、柳北のお気に入りだったようです。

更に、千代鶴、阿常という芸者を呼ぶ。千代鶴は、西屋の隣、煙草屋という酒楼の女性で、浪速の出身だったそうです。柳北は、この千代鶴と一夜を共にする。

 

翌日、西屋を出て、瑜伽参詣に向かう時には、西屋の鶴香、千代鶴、その他、西屋の人たちが見送ってくれたそう。

 

随分と、由加の門前や田の口が、人の集まる、賑やかな場所だったということが、よく分かりますよね。

 

ちなみに、紀行文を残した人たちは、由加山から見る瀬戸内の多島美や、四国の山々の景色の素晴らしさを書き残していますが、今、車で車道を走っている限り、このような景色が見える場所は由加山の中には、無いような気がします。

参道を歩くと見えるものなのか、それとも、昔は、今よりも、木々が、あまり茂っていなかったということなのか。