京都見廻組の実質的な指揮官だった佐々木只三郎と、鳥羽伏見の戦いについて、この本から。

 

 

 

慶応3年(1867)12月10日、王政復古の翌日、旧幕府は、京都見廻役の小笠原河内守と、京都町奉行の大久保主膳正、高力主計頭を「遊撃隊頭」に任命。

これは、もはや、京都見廻役、京都町奉行が、京都を管轄することは無くなり、徳川家への軍事部隊へと移行させたものと思われる。

12日、その配下の見廻組士たちも、遊撃隊に改称。

同日、徳川慶喜以下、旧幕府軍は、二条城から大坂に向かう。

13日、大坂城に到着。

14日、京都守護職、京都所司代は免職され、遊撃隊は、新遊撃隊に改称。

この頃、幕府軍の編成には、混乱があり、見廻組もまた、その編成に、影響を受ける。

また、新たに、組士の採用も進む。

 

25日、江戸で、庄内藩、新徴組が、薩摩藩邸を襲撃。

同日、再び、見廻組に改称。

28日、この知らせが、大坂に届く。

29日、大坂市中警戒のため、警備地域を割り当て。

慶応4年(1868)1月2日、旧幕府軍、「討薩表」を掲げ、大坂を出陣。

一般に旧幕府軍は、1万5千と言われていますが、これは大坂に残った兵も合わせたもので、京都に向かったのは、7千から8千。鳥羽街道、伏見街道だけでなく、かなりの兵が、淀川を遡行していた。この頃、見廻組の組士は、6百人程度だったと思われる。

その中で、京都に向かったのは、佐々木只三郎が率いる4百人。

3日、淀藩、稲葉家の城下で宿陣をしていた旧幕府軍は、見廻組を先頭に、鳥羽街道を進む。

そして、下鳥羽から四ツ塚まで進んだところ、関門を守備する薩摩藩兵に停止を命じられる。この時、馬上にあった人物が、薩摩の藩兵と応対。佐々木只三郎の可能性あり。

更に、見廻組士、二人が、薩摩藩兵と交渉。その時、薩摩藩兵が発砲し、一人が殺害される。

突然の砲撃を受け、旧幕府軍は、大混乱に陥る。見廻組は、刀槍で白兵戦を挑むが、薩摩藩兵の銃撃を受け、撤退。その後、撤兵隊が放棄していた武器を手にして、伝習隊、歩兵隊と共に応戦する。

深夜、午前零時頃、旧幕府軍は、新政府軍の奇襲攻撃を受け、淀方面に撤退。

4日、早朝、下鳥羽に宿陣していた見廻組は、桑名藩大砲隊、歩兵第12連隊と共に、攻勢に出る。しかし、午後二時頃、歩兵第12連隊を率いる、歩兵頭の窪田鎮章が狙撃され、重傷を負ったため(大坂で死去)、下鳥羽から富ノ森に撤退。午後四時頃、富ノ森で会津藩兵と共に、新政府軍と戦う。同日、淀藩、稲葉家が、徳川家を裏切り、新政府側につく。

5日、午前八時頃、富ノ森で、新政府軍、旧幕府軍の戦闘が始まる。午前十時頃、千両松でも戦闘が始まり、旧幕府軍は、木津川を渡り、八幡、橋下へと退却。

6日、午前六時頃、橋本の楠葉砲台で戦闘が始まる。見廻組、新選組も、橋本に布陣。見廻組の指揮を取っていた佐々木只三郎は、組士と共に、船の手配をしようとしていたところ、狙撃をされ、腹部に銃弾を受ける。佐々木只三郎は、組士らによって、戸板に乗せられて退却。正午頃、淀川対岸の高浜砲台から、津藩、藤堂家の裏切りによって砲撃を受ける。旧幕府軍は、この裏切りによって総崩れになり、大坂に撤退する。

 

明治30年に伏見に建立された慰霊碑の記録によれば、この「鳥羽伏見の戦い」で戦死をした旧幕府軍の兵士は、250余人。このうち、見廻組の犠牲者は、33人。

また、「藤岡屋日記」によれば、その他の見廻組の組士、四人の戦死が記録されている。

ちなみに、今井信郎が、坂本龍馬暗殺の実行犯として挙げた七人のうち、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、桂早之助、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵の六人は、この鳥羽伏見の戦いで、戦死しているということ。

 

6日、午後十時頃、旧幕府軍が、橋本で戦闘を続けている最中、徳川慶喜は、わずかな共を連れて、大坂城を、密かに脱出。

7日、大坂城の旧幕府軍は、解兵され、諸藩兵には国元に、旧幕府軍兵士には、江戸に帰還することが命じられる。

 

旧幕府軍は、紀州藩の援助により、海路を帰国するように指示される。

新選組と会津、桑名藩などの負傷者は、旧幕府海軍の軍艦に乗せてもらえたが、他の人たちは陸路を進まなければならなかった。

見廻組もまた、紀州へ、陸路を進む。約600人の組士のうち、京都で採用されたものは、現地に残ったと考えられる。

8日朝から、旧幕府軍が、和歌山に到着を始める。

9日、見廻組もまた、紀州に到着を始める。彼らは、鳥羽伏見の戦いでの負傷者も同行していて、佐々木只三郎も、その中の一人。佐々木只三郎は、前日の8日に、息を引き取っていたようで、組士たちは、遺体を長持ちの中に入れて運び、9日、紀州三井寺に埋葬。12日、葬儀が行われたと思われる。享年、36歳。

 

佐々木只三郎について。

 

天保4年(1833)、会津藩士、佐々木源八の三男として会津で生まれる。名前は高城。

長男である兄、手代木直右衛門は、会津藩公用人。

安政6年(1859)、27歳の時に、幕府御家人の佐々木矢太夫の養子となります。

そして、只三郎は、御所院番与力に任命されることに。

 

文久3年(1863)、将軍、徳川家茂が上洛するにあたり、その護衛として集められた浪士組が京に向かうにあたり、浪士取締出役として、佐々木只三郎と速水又四郎が任命される。しかし、この浪士組は、清河八郎の策略により、「攘夷の先兵」となるべく集められたもので、幕府は、この浪士組を、江戸に戻すことに。ちなみに、この時、江戸に戻らず、京都に残った者たちが、壬生浪士隊、後の新選組を結成することになる。

幕府は、江戸に戻った清河八郎の暗殺を、佐々木只三郎、速水又四郎に命じる。同年4月13日、清河八郎、暗殺。

 

元治元年(1864)6月16日、佐々木只三郎は、京都見廻組与頭勤方に任命される。

慶応元年(1865)12月、佐々木只三郎は、見廻組与頭に昇格。

この頃、佐々木只三郎は、見廻組の組屋敷ではなく、北野天満宮境内の観音寺や二条城の北の松林寺といった市中の寺を借りて、妻の美津と生活し、「高」という子供をもうける。

 

さて、この佐々木只三郎の仕事として、最も、有名なのは「坂本龍馬の暗殺」です。

 

慶応3年(1867)11月15日、京都の近江屋で、坂本龍馬、中岡慎太郎の二人が暗殺される。

この坂本龍馬暗殺の指揮を取ったのが、佐々木只三郎と言われ、参加をしたのは、佐々木只三郎、その他、見廻組の組士、六人。

 

この「坂本龍馬暗殺」について。

個人的に、今から30年から25年ほど前に、個人的に関心を持ち、色々と本を読んで調べ、素人なりに、色々と考察をしていました。

今の最新の研究状況がどうなっているのかは知りませんが、当時の知識から、考えをまとめてみます。

 

坂本龍馬を暗殺したと最初に証言をしたのは、見廻組の組士だった今井信郎です。

今井は、戊辰戦争を衝鋒隊の幹部として箱館戦争まで戦い抜き、新政府軍に降伏します。そして、明治3年(1870)、刑部省によって取り調べを受けた時に、「佐々木只三郎の指揮の下、自分を含めて七人で暗殺した」と自供をします。

しかし、この証言は、当時、あまり注目をされた訳ではなかったようです。

今井信郎も、それほど、重い罪に問われた訳ではなく、明治5年(1872)には、特赦により、釈放されます。

 

そして、この今井信郞の証言が、世間で注目を浴びることになるのは、明治33年(1900)に、今井と親しくしていた結城禮一郎という人物が、今井に取材をし、その内容を甲斐新聞に掲載したのが、きっかけです。

実は、この時の今井の話の内容は、結城禮一郎が大きく改変をしているようで、刑部省での証言とは、かなり異なっていて、それが、その後の「坂本龍馬暗殺」の謎の検証に問題を起すことにもなる。

つまり、「今井信郞の証言は、嘘ではないか」という疑念を生んだということ。

 

そのため、「坂本龍馬を暗殺したのは、見廻組ではない」という説も、数多く、出現をすることになる。

当時も、坂本龍馬と親しい関係にあった谷干城が、この今井の証言に「売名行為だ」と猛反発。ちなみに、谷干城は、坂本龍馬を暗殺したのは、新選組だと信じていたようです。

 

個人的に、「坂本龍馬を暗殺したのは、見廻組の佐々木只三郎以下、七人で間違いない」と思うようになったのは、もう一人、坂本龍馬暗殺に参加したと思われる渡辺篤という見廻組の組士の証言を知ったこと。

 

渡辺篤は、自分の人生の経歴を書いた「履歴書」を、いくつか書き残している。

その中で、最も、時代が古い、明治18年(1885)に書かれたもの。

当時は、恐らく、今井信郞が、明治3年に、刑部省の取り調べで、坂本龍馬暗殺を自供したという話は、世間には広まっていなかったはず。

そして、当時は、まだ、坂本龍馬という人物の存在自体が、世間で、それほど、知られたものではなかったよう。つまり、坂本龍馬の知名度は、世間では、まだ低かった。

この明治18年の「履歴書」の中で、渡辺篤は、「坂本龍馬暗殺は、佐々木只三郎と自分、他、五名で実行した」と書き残している。

渡辺篤は、今井信郞の刑部省での証言は知らなかったはずで、これは、なかなか、重要なことではないかと個人的には思うところ。

 

しかし、問題は、その後、渡辺篤は、この坂本龍馬暗殺についての詳細を証言することになるのですが、その内容が、今井信郞の証言とは、かなり異なる。

これが、また、今井信郞の証言と共に、渡辺篤の証言も「嘘ではないか」と疑われる原因になる。

 

なぜ、今井信郞、渡辺篤の証言の内容が、コロコロと変わるのか。

その理由についての考察は、省きます。

今井信郞にしろ、渡辺篤にしろ、当時、置かれていた状況や、個人的な思惑など、様々な事情があったのでしょう。

それについて考察することは、あまり、意味の無いことか、とも、思っている。

 

重要なことは、まだ「坂本龍馬」という人物が、世間に知られている訳ではなかった時期に、「自分が、坂本龍馬を暗殺した」と証言をしていること。

これは、今井、渡辺の二人にとって、何か、メリットがあった訳ではないので、敢えて、嘘をつく必要の無いこと。

そのため、二人の「坂本龍馬を暗殺した」という証言自体は、事実として認めて良いのではないかと思っているところ。

 

ちなみに、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響で、今の日本社会の中で、「坂本龍馬」という人物は、絶大な知名度、人気を誇っていますが、明治初期、すでに亡くなっていた坂本龍馬の存在は、世間では、ほぼ、知られていなかったようです。

しかし、同じ司馬遼太郎のある本によれば、明治37年(1904)日露戦争の当時、確か、皇后陛下だったと記憶していますが、その皇后陛下の夢枕に、ある男性が出現し、「この戦争は、日本が勝つ」と話したという出来事があり、皇后陛下が「この男は、誰だろう」と人に話したところ、男性の風貌から「それは坂本龍馬に違いない」と言うことになり、この話が、新聞か何かで報道されたことで、坂本龍馬という人物の知名度が、一気に世間で高まったそうです。

 

ちなみに、明治16年(1883)、高知の民権派の新聞「土陽新聞」の連載小説として、坂本龍馬を主人公にした「汗血千里駒」という小説が発表されます。

この小説は、「当時、無名だった坂本龍馬を再発見し、坂本龍馬のイメージの原型を作った」と評価をされているそうです。

現在、有名な坂本龍馬に関するエピソードの多くが、この小説が出典になっているという話も。

しかし、全68回の中で、坂本龍馬の登場しない回が、26回もあるということ。

坂本龍馬の地元、高知の新聞で、この扱いなのですから、当時の坂本龍馬という人物の知名度の低さ、人気の低さが、よく分かる。

 

やはり、司馬遼太郎の影響力は、絶大ですね。