さて、豊臣秀吉の天下統一から、安房里見氏の滅亡まで、この本から。

 

 
 

 

戦国時代、安房国を拠点にした里見氏は、次第に勢力を伸ばし、上総国、下総国で、関東の覇権を狙う北条氏を相手に戦い続ける訳ですが、最終的に、北条氏に屈服し、北条氏に服従する格好で同盟を結ぶことになる。

そして、それは、豊臣秀吉による北条征伐まで続くことになるのですが、この豊臣秀吉による北条征伐に合わせて、里見氏は、北条氏の配下から脱し、北条征伐の豊臣秀吉に臣従することになる訳ですが、ここで、里見義康は、上総国の没収を命じられ、安房一国に戻されることになる。

そして、里見家と豊臣政権を繋ぐ人物として奉行の増田長盛が里見家に関わることになる。

 

天正18年(1590)10月、里見義康は、増田長盛に安房国の領国内の統治整備を委ねる。上総国を失ったことで、里見義康は、居城を館山城に移し、城下町が整備されて行くことになる。

天正19年(1591)3月、上洛をした義康は、「公家成」を果たし、羽柴姓を受ける。

天正20年(1592)、朝鮮出兵のため、増田長盛の麾下として、肥前国名護屋城の在陣。

文禄3年(1594)1月、義康は、伏見城の築城工事に関わり、以後、伏見に滞在することが増える。

慶長2年(1599)、増田長盛の支援で、検地による領国改革を実施し、支配体制の確立に努める。この増田長盛による検地は、天正18年(1590)から始まり、それに基づき、知行地の宛行も行われることになるのですが、領国が三分の一に減ったことで、当然、混乱も起こる。しかし、義康は、関白、豊臣秀吉の意向ということを前面に出して、乗り切ったよう。この慶長2年に行われた太閤検地による安房国の石高は、9万1139石余。

この慶長2年から、同11年にかけて、家臣の新規採用や加増が、増加をしているそう。また、自立性の高かった正木氏を一門化しているよう。

戦国大名から、近世大名へと、里見家の改革が進められている。

 

慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉、死去。

慶長5年(1600)、里見義康は、会津出陣を徳川家康に命じられ、7月23日、下総国小金に着陣。その後、宇都宮に入り、結城秀康と共に、上杉景勝に備える。この時、義康は、家康と共に、西上することを望んだようですが、認められなかったということ。

慶長6年(1601)1月、義康の弟、忠重が、徳川秀忠に、家臣として取り立てられ、上野国板鼻で、一万石を与えられる。

慶長7年(1602)5月、常陸国の佐竹義宣が出羽国秋田に移封された後、里見義康は、宇都宮での働きを認められ、常陸国鹿島、三万石を与えられる。安房国と会わせて、計12万石となる。

慶長8年(1603)11月、里見義康、死去。31歳。

慶長10年(1605)4月、徳川家康、秀忠に、家督と将軍職を譲る。

慶長11年(1606)、義康の嫡男、梅鶴丸が、十歳で家督を継ぐ。正木時茂が、名代として、政務を担当。11月15日、梅鶴丸が元服し、忠義と名乗る。12月、忠義、政務を開始。

慶長12年(1607)、徳川家康は、駿河国府中に移る。

 

徳川幕府は、江戸の将軍、徳川秀忠、駿府の大御所、徳川家康の二頭体制となる訳ですが、江戸で、徳川秀忠を支えたのが、本多正信と大久保忠隣の二人。里見忠義は、大久保忠隣に接近することで、大名としての地位を守ろうとしていたようで、忠隣の孫娘と結婚することになる。大久保忠隣にとっては、本拠地の相模国小田原城で江戸西方の防備を務め、安房国里見氏と結ぶことで、江戸湾の入口も抑えることになる。

また、里見忠義の叔母は、松平忠政に嫁いでいた。この松平忠政もまた、大久保忠隣と関係が深く、里見忠義は、幕府の重臣、大久保家との繋がりを強化することで、自身の地位を守ろうとしたと考えられる。

 

大久保忠隣もまた、自身の幕府内での権力強化のために、里見氏を始め、様々な方面に手を伸ばすことになるのですが、その中で、慶長18年(1813)1月、大久保忠隣は、山口重政の子息に娘を嫁がせようとして、これが、将軍、徳川秀忠の許可を得ていないということで、改易処分を受けることになる。これは、徳川秀忠が、大久保忠隣の権力の拡大を警戒した結果、その処分に踏み切ったということになるのでしょう。

慶長19年(1814)1月、大久保忠隣の小田原城は、占拠の上、破却される。

同年2月、徳川家康から、大久保忠隣に改易が言い渡される。

そして、その大久保一族への処分は、里見氏にも及ぶことになる。

 

同年9月、里見忠義は、安房国から、常陸国鹿島領への移封を命じられる。

安房国の館山城は、接収の上、破却。

同年10月、里見忠義は、常陸国鹿島領から、更に、伯耆国の倉吉への移封を命じられ、安房国は、徳川将軍家の直轄領となる。

安房国から伯耆国に移ることになった里見忠義ですが、かつては、改易と言われていたようですが、近年では、改易ではなく、あくまでも転封だったと解釈されているそうです。

 

さて、この里見氏の安房国から伯耆国倉吉への転封について。

本の中では、理由に触れられていないようなので、ネットで調べてみる。

これには、やはり、大久保忠隣の縁者として、連座での処分という面があったようですね。他に理由としては、城郭の修理や、牢人の召し抱えが、幕府に目を付けられたという面もあったよう。

また、この時期、下野国の佐野家も改易されているそうで、関東の外様大名の勢力削減という意図も、幕府にはあったのかも。

 

慶長19年(1614)12月、里見忠義は、伯耆国倉吉に入り、久米郡、河村郡で二万七千石を領することになる。

しかし、元和3年(1617)、因幡国、伯耆国を与えられた池田光政が、姫路から移って来ると、忠義は、領地を失い、百人扶持を与えられて、竹田川に面した郊外の田中村に屋敷を移されたそう。そこは、河川敷のような場所で、まるで、罪人の扱いだったそうです。そして、倉吉には、池田家の重臣、伊木氏が入り、里見家は、その監視下に置かれることになる。

元和5年(1629)には、更に、山奥の堀村に屋敷を移されたそう。

元和8年(1632)6月、里見忠義、病死。29歳。里見家は、ここに断絶する。

 

この安房里見家の滅亡の経緯を見ていると、あまりにも、理不尽な気がする。

やはり、安房国は、江戸湾の入口にあり、その重要拠点を幕府が直接、支配下に置きたいという意図があったのだろうと思われます。

また、個人的には、徳川家が、清和源氏新田流を名乗ったことも、一因かと想像するところ。里見家は、この清和源氏新田流の、隠れ無き名門。徳川家にとっては、目障りな存在だったのかも知れない。

 

里見忠義の夫人は、忠義の伯耆国への移封に同行せず、実家の大久保家に戻ったそう。

しかし、夫人は、常に、里見家のことを思い、大久保家が移封されるたびに、その地に、夫、里見忠義を追善するための寺院を建設したということ。

娘の一人は、父、大久保忠常の養女として、旗本の木下家に嫁ぎ、その時、夫人は、娘に里見家の家系図と古文書を託したということ。夫人は、生涯、里見家の再興と復権を願っていたそうですが、実は、この時、娘に託した古文書は、偽書だったようです。

それだけ、里見家への思いが強かったということでしょうが、里見家の再興は、夫人の死によって、失敗に終わる。

 

さて、ここから、戦国時代以前の里見氏の歴史。

 

里見氏の祖は、新田義重の庶長子、義俊となりますが、史料から確認することが出来るのは、義俊の子、義成からだそうです。

里見義成は、源頼朝に気に入られ、その側近として活躍。武芸に、とても優れていたそうです。

しかし、源頼朝の死去と共に、里見義成の活躍は、「吾妻鏡」からは消えてしまう。

元久元年(1204)、里見義成は、伊賀守に任命されているそうです。

これは、京都守護にあった平賀朝雅の推挙によるもの。

そして、北条時政の起した「牧氏の変」によって、平賀朝雅が幕府によって討たれ、その後の里見義成の消息は、分暦元年に、死去するまで分からないということ。

 

里見義成の子、義直は、建仁元年(1201)から元久元年(1204)まで、京都守護を務めたそうです。平賀朝雅の前任です。

そして、里見義直は、「承久の乱」の功績で、美濃国の円教寺地頭職を与えられたそうで、「美濃里見氏」の祖となります。

 

里見義成の孫、氏義もまた、一時、在京していたようで、寛元2年(1244)、掃部権助に任命されている。

里見氏嫡流は、上野国を本拠地としながら、在京活動を維持していたと考えられるよう。

しかし、「吾妻鏡」での里見氏の登場は激減し、鎌倉では、里見氏の庶流が、細々と活動をしていたと考えられる。

 

鎌倉時代から室町時代にかけて、里見氏は、各地に広がることに。

 

鎌倉時代初期、里見義成の子、大島義継、氏継の父子が、越後国中魚沼地方で職分を得る。ここから、越後里見氏が始まります。

 

また、弘安5年(1282)、長門国の記録に、里見氏が登場する。

これは、「承久の乱」の功績で、長門国に進出をした里見氏が居たのかも知れないということ。

 

鎌倉末期から南北朝時代、里見一族は、多くが、新田義貞と行動を共にし、南朝側に味方をしたよう。

また、美濃里見氏の中では、里見義宗が、北朝、足利側についたようですが、「観応の擾乱」の時に、足利直義についたため、没落し、その後、美濃里見氏の活動は見られなくなるということ。

そして、新田義宗の戦死によって、新田本宗家が滅亡すると、上野国、越後国の里見一族もまた、逼塞状態に。

そして、室町時代、鎌倉公方の二代目、足利氏満の時代に、自身の勢力拡大のため、新田一族の帰属を認め、里見氏もまた、活動を始めたよう。

 

新田義貞の側近と言われる里見義胤の子、義連には、陸奥国に関連する記述が見られるということ。

この時期から、東北での里見氏の記録が見られるようになる。

出羽国成生荘の天童氏は、新田流里見氏を名乗っているそうです。

その後、奥州探題、斯波氏の子孫と言われる大崎氏の重臣や、山形城主、最上氏の家臣に、里見氏の姿が見えるよう。

 

また、室町幕府奉公衆となった里見氏も居たようですね。

 

鎌倉府に仕えた関東の里見氏たちは、室町時代の関東の騒乱の中で活躍。

その中で、応永34年(1427)、里見刑部少輔という人物が、記録の中に登場する。

この里見刑部少輔は、鎌倉公方足利持氏の配下として、常陸方面の軍事指揮官となり、常陸国に駐屯し、奥州南部、常陸国北部と、鎌倉公方との取り次ぎ役だったと考えられるよう。

この里見刑部少輔の実名は、不明。里見義実の父、家基ではないかとも言われているようですが、年齢的に、やや、不自然だそう。

基家ではなく、基家の父、里見家兼である可能性の方が高いよう。

この里見刑部少輔が、安房国里見氏に繋がる可能性もありますが、今ところは、不明。

 

さて、越前鯖江藩間部家の江戸詰め中老、里見家は、安房国に残されていた里見忠義の側室の子、里見利輝の孫、義旭が、徳川家宣の側用人とした活躍した間部詮房に取り立てられたのが始まりだそうです。

この里見家は、明治に至るまで、代々、先祖の故地を廻り、事績の調査を行っていたということ。

 

また、別の側室の子、山下貞倶は、徳川家光に表坊主として仕え、その子は旗本となり、明治まで続いたということ。

 

また、上総国や安房国で土着をした家の中に、里見忠義の側室の子が祖であると称する家も、いくつかあったよう。

 

そして、「南総里見八犬伝」が登場することになる。

この、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、江戸の社会で絶大な人気を獲得し、安房国里見氏は、社会での認知度、人気を高め、里見氏の名誉の復権に、大きく寄与したということになるのでしょう。

この「南総里見八犬伝」については、また、いつか。