芥川龍之介の小説「蜃気楼」。

この「蜃気楼」は、「歯車」と並んで、大好きな小説です。

ごく、短い小説で、これまで、何度も、読み返している。

 

 

この小説「蜃気楼」は、主人公の「僕」が、友達と一緒に、海岸に、蜃気楼を見に行くという話。

特に、物語というものは無く、その海岸で起こる、何気ない出来事が、感覚的に描かれている。

この小説が書かれたのは、芥川が自殺をする半年前ということですが、「歯車」ほど、「死」の影が、「僕」に、迫ってくる訳ではない。

もっとも、船から水葬されたと思われる人の遺品を、その海岸で発見することになるのですが、その、直接的な「死」のイメージもまた、「歯車」ほど、深刻なものではない。

それだけに、軽い感じで読むことが出来、不思議な感覚を文章から感じることが出来る。

 

それと、もう一つ。

個人的に、この「蜃気楼」が好きな理由は、大好きな梶井基次郎の小説と、雰囲気が似ているから、と言うところにある。

梶井基次郎が、芥川龍之介の文章で、小節を書くと、このようになるのではないかと、勝手に、思っている。

この「蜃気楼」が、梶井基次郎の「城のまる町にて」という小説の中の、一つのエピソードとして入っていても、違和感が無い気がするところ。

 

 

この「海辺」での「何気ない話」というのは、個人的に、とても、好きなシチュエーションです。

例えば、以前も紹介した、つげ義春の漫画「海辺の叙景」。

また、梶井基次郎の小説「Kの昇天」も、そう。

 

そして、この「海辺」を舞台にした「何気ない話」で、大好きなのが、映画「あの夏、いちばん静かな海。」です。

公開は、1991年。

監督は、北野武。

 

 

映画監督「北野武」は、もちろん、芸人の「ビートたけし」さんで、ビートたけしさんが映画監督をしているという話は、当時、もっぱら、洋画ばかりを見ていた僕も、話に聞いて、知っていたのですが、そもそも、当時は、邦画に関心がなく、また、ビートたけしさんが撮った映画にも、全くもって、関心がなく、見てみようとも思わなかった。

しかし、この「あの夏、いちばん静かな海。」に関しては、偶然、たまたま、誰かの映画評論で、「とても変わった、不思議な映画だ」と言っていたので、見てみることに。

 

何が、変わっているのかと言えば、主人公である男女のカップルが、「耳が聞こえない」という設定で、物語の中心になる主人公の二人が、何も喋らない。

そして、何の説明も無いまま、物語は、淡々と、進んで行く。

 

ゴミ収集をしている主人公の青年は、ある日、ゴミ捨て場に捨てられていた、壊れたサーフボートに興味を持つ。

そして、そのサーフボートを自分で修理し、近くの海岸で、自己流で、サーフィンを始める。

サーフィンを通して、周囲の人たちとも交流も始まる。

しかし、青年も、その恋人も、何も喋らない訳で、喋らない二人の関係や、周囲の日たちが、その二人を見守る様子もまた、とても、良い雰囲気を出している。

 

そして、なんと言っても、この映画の素晴らしいのはエンディングです。

北野監督の素晴らしい映像と、久石譲の素晴らしいテーマ曲が、とてもマッチしていて、初めて見た時には、感動しました。

 

しかし、以前、確か、ネットのコメントだか、映画評論だかを見ていると「このエンディングは、映画として不要なのではないか」と書かれているものがありました。

一体、何を言っているのか。

このエンディングこそ、この映画の素晴らしさを引き立てているのに、と、思ったところです。