戦国時代、房総半島の安房国に拠点を置き、関東の覇者となる北条氏を相手に戦い続けた「安房里見氏」。

昔から、関心を持っている戦国大名の一人なのですが、なかなか、適当な本が無く、最近、ようやく、この本を読んだところ。

 

 

この本。

最新研究に基づき、「安房里見氏」のことが、詳しく書かれていて、とても面白かったです。

 

戦国時代、房総半島で活躍をした「安房里見氏」について。

 

さて、そもそも、「里見氏」とは、どういう一族なのか。

里見氏は、平安時代末期、清和源氏新田流の祖、新田義重の庶長子、義俊が、上野国八幡荘の里見郷を父から受け継ぎ「里見」を名乗ったことから始まります。

里見氏は、それから、全国各地に広がることになりますが、安房国の里見氏が、どこから来たのかは、確かな史料からは、分からないよう。

 

永享12年(1440)、前年の「永享の乱」によって滅亡した鎌倉公方、足利持氏を支持する勢力が、その遺児、二人を擁して、結城城で蜂起します。その中に、「里見義実」が居て、翌、嘉吉元年(1441)4月、結城城は落城。父、里見家基の命令で、義実は、結城城を脱出し、安房国に逃れる。ここから、「安房里見氏」が始まると言われていましたが、これは、後世の軍記物などで作られた創作で、史実ではない。

 

この里見義実に関する一次史料というものは存在しないようで、何時、どのような理由で、義実が安房に入ったのかは、定かではないよう。

今の研究では、関東公方の足利成氏と、関東管領の上杉氏との抗争の中で、「享徳の乱」の頃に、関東公方側の勢力の旗頭となるべく、安房に派遣されたのではないかというのが主流だそうです。

この「享徳の乱」とは、享徳3年(1455)に発生したもの。鎌倉公方、足利成氏が、関東管領、上杉憲忠を暗殺したことによって始まり、関東全体が、28年に渡って混乱に陥り、関東では、この「享徳の乱」から、戦国時代が始まったと言われています。

 

関東では、室町時代を通じて、戦乱が絶えなかった。基本的には、鎌倉の関東公方と、それを支える立場の関東管領の上杉氏との戦いで、「永享の乱」「結城合戦」を経て、房総半島は、上杉氏の勢力圏になっていたようで、その巻き返しのために、里見義実は、関東公方側として、安房国に入ったということになる。

 

里見義実の息子は、義成で、この義成もまた、一次史料からは、確認出来ないそう。

安房里見氏で、確実な史料に最初に登場するのは、里見義通という人物で、里見義実、義成と、義通との関係は、定かではないよう。

この里見義通が、安房国を掌握していたのは確かのようで、里見氏の下で、大きな力を持っていたのが正木氏。この正木氏は、里見氏の重臣として、里見氏を支えることになる。

この正木氏は、相模国三浦氏の血を引くということですが、確かな史料からは確認出来ないよう。しかし、正木氏が三浦氏の血を引くことは、ほぼ、確かだろうということで、里見氏よりも、やや、遅れて、安房国に入り、里見氏に従属することで、勢力を伸ばしたようです。これを「里見、正木体制」と呼ぶよう。

 

さて、関東公方は、元々、鎌倉に居たのですが、「享徳の乱」の時に、下総国古河に移ることになる。これを「古河公方」と呼びます。

この古河公方が、足利成氏の時代に、次男の足利義明は、兄の足利高基と対立し、下総国小弓に御所を構え、「小弓公方」を名乗ることになる。

実は、関東の戦乱は、関東公方を始め、里見氏や正木氏でも、内部分裂、対立が多くあり、かなり複雑な様相となっていますが、それは、分かりづらいので、省きます。

 

この小弓公方、足利義明は、永正15年(1518)、上総国の真里谷武田氏の招聘を受け、房総に入る。古河公方、小弓公方が、激しく対立をする中で、真里谷武田氏と里見氏は、小弓公方を支持。そして、この小弓公方派は、反北条でもあり、里見義通の後を継いだ、里見義豊は、江戸湾を挟んで、北条氏と、激しく対立をする。

ちなみに、古河公方の足利高基の子、足利晴氏が、反北条氏の支援で元服。晴氏は、父、高基と対立していて、里見義豊は、この足利晴氏も支持することになる。

 

さて、この里見義豊ですが、天文2年(1533)7月、重臣の正木通綱と、叔父の里見実堯を殺害。これをきっかけに「天文の内乱」が発生する。しかし、翌天文3年(1534)4月、里見実堯の息子である里見義堯の反撃を受けて、自害。この経緯に関しては、通説は、恐らく、史実ではない。実際は、里見氏嫡流の里見義通から、傍流の里見義堯が、下剋上によって、家を奪い取ったと考えられるよう。この時、里見義堯は、北条氏の支援を受けている。しかし、小弓公方との関係から、義堯と北条氏は、間もなく、手切れに。

ちなみに、里見義豊までを「前期里見氏」。里見義尭からを「後期里見氏」と呼びます。

 

この頃、上総国の真里谷武田家でも、内紛が起こっていた。この真里谷武田氏の内紛は、小弓公方、足利義明の介入で、一旦、収束。しかし、天文6年(1537)5月、再び、内乱が発生。小弓公方は、武田信応を支持し、里見氏にも支援を命じる。北条氏綱は、武田信隆を支援し、戦闘は、武田信応の有利に進み、武田信隆は実質的に降伏をすることになる。

この結果、真里谷武田氏は、大きく衰退。真里谷武田氏に支えられていた小弓公方もまた、大きく衰退することになる。

その中で、天文7年(1538)10月、「第一次国府台合戦」が起こる。

この「第一次国府台合戦」は、古河公方の足利晴氏と、小弓公方の足利義明の正当性を巡る戦いで、小弓公方、足利義明は、古河公方側の北条軍と戦い、戦死。小弓公方は、ここに滅亡する。

小弓公方側として合戦に参加をしていた里見軍は、ほぼ、戦うことなく、撤退をしたようで、足利義明の遺児たちは、小弓城の落城後、里見氏を頼って、安房に落ち延びたということ。

 

その後も、天文12年(1543)頃から、真里谷武田氏の内部対立が始まる。里見義堯は、武田信秋を支援し、信秋が無くなると、義堯は、武田信秋の旧領に侵攻し、上総国に勢力を伸ばす。同時に、里見家重臣の正木時茂、時忠の兄弟も、東上総に侵出。

里見氏、正木氏が、上総国に、東西から侵出。更に、北条氏もまた、上総国に侵出し、天文21年(1552)、真里谷武田氏は、事実上、滅亡する。

真里谷武田氏の領国は、大部分を北条氏が支配下に収める。里見氏、北条氏の対立が激化する。

 

北条氏は、初代の伊勢宗瑞の時代から、度々、上総方面に侵攻をしている。次第に、房総での影響力を増す北条氏でしたが、その関連で、支援をした里見義堯が、小弓公方の要請に従い、武田氏の内紛に関連して、北条氏と敵対することになる。

そして、「第一次国府台合戦」で、小弓公方が滅びると、北条氏は、古河公方との関連で、房総方面に侵攻。武田氏の内紛に絡んで、里見氏、北条氏は、激しく対立し、上総国の武田領を支配下に置いた北条氏は、安房国、上総国の国境付近で、里見氏と対峙することになる。

そして、西房総の重要拠点だった里見氏の金谷城が、天文24年(1556)9月に陥落。

この時は、北条氏康自身も、上総に出陣をしたということ。

 

永禄3年(1560)、里見義堯の居城、久留里城が、北条軍に包囲される。

この頃、北条氏は、関東管領の上杉憲政を越後国に追い落とし、関東での勢いを増していて、房総での侵攻を強めていた。

絶体絶命に追い込まれた里見義堯は、重臣の正木時茂を交渉役に、越後国の上杉謙信の関東侵攻を要請。当年9月、上杉謙信は、上杉憲政と共に、関東への侵攻を開始する。

久留里城を包囲していた北条軍は、撤退。里見義堯は、房総で反撃を開始する。

里見義堯は、金谷城を始め、北条氏に奪われていた重要拠点を、次々と奪還。下総国の西部にまで侵攻し、領土の拡大を図る。正木時茂は、上総国東部の香取郡に侵攻する。

永禄4年(1561)3月、里見義弘は、正木時茂と共に、上杉謙信が入った鎌倉に出陣。上杉謙信の小田原攻めで、正木時茂は、特に、目立った活躍をしたようで、北条氏康は、特に、書状で、名前を挙げているそう。しかし、正木時茂は、この小田原攻めの後、間もなくして死去。恐らく、戦傷によるものだろうということ。

 

永禄5年(1562)、上杉謙信の撤退後、北条氏は、反撃を開始。上総国の千葉氏は、北条氏と手を結び、里見氏(正木氏)と激しく対立する。

下総国の葛西城を中心に、里見氏、北条氏の攻防が始まる。

上杉謙信は、再び、越後国から関東に入りますが、北条氏の攻勢に有効な手を打つことが出来ず、古河城に居た上杉憲政、近衛前久と共に、越後に帰国。古河公方、足利藤氏は、里見氏を頼って房総に逃れ、関東の諸将は、北条方につくことに。

永禄5年(1562)4月、北条軍が、葛西城を里見氏から奪還。同年秋、北条軍は、里見氏と同盟する太田氏の武蔵国の松山城を包囲。

同年12月、上杉謙信は、越後国から、上野国の沼田城に入る。

永禄6年(1563)2月、里見義堯は、上杉謙信の要請で、義弘と共に、武蔵国岩付に着陣。しかし、その直後に、松山城は落城。上杉謙信は、下野国小山へ。里見義堯は、領国に引き返す。

 

永禄6年(1563)12月、北条氏と同盟をする武田信玄が、上野国倉賀野城を攻撃。上杉謙信は、越後国から上野国沼田城に入る。この時、上杉謙信は、常陸国の佐竹氏の要請で、常陸国小田城に攻撃に向かうことを里見氏はつかんでいた。この時、里見義堯は、上杉謙信の出陣要請を無視することに。

永禄7年(1567)1月、里見軍、下総国西部の葛西城を攻撃開始。岩付城の支援に乗り出す。これに対して、北条氏康は、里見義堯との決戦のため、小田原を出陣。同年1月7日、「第二次国府台合戦」が起こる。

激戦の末、里見軍は、北条軍に敗れ、房総方面への入口を、北条氏に抑えられることになる。

この第二次国府台合戦の敗北により、里見氏は、下総国、上総国での影響力を低下させ、北条氏に房総への侵攻を許すことになる。

 

この第二次国府台合戦の結果、攻勢を強める北条氏に対して、里見義弘は、再び、上杉謙信に関東侵攻を要請。永禄8年(1565)末、上杉謙信は、越後国から関東に入る。

上野国で年を越した上杉謙信は、2月には、下総国に侵攻。3月、臼井城の攻撃を開始。里見軍も、この臼井城の攻撃に参加。

しかし、3月23日、上杉軍は、大敗を喫し、25日、撤退に追い込まれる。

その結果、常陸の小田氏、下総の結城氏、下野の小山氏、宇都宮氏らが北条氏に降伏。常陸の佐竹氏、関宿の梁田氏らが、北条氏と同盟を結ぶ。

里見氏は、反北条として孤立をすることになる。

 

永禄10年(1567)8月、北条軍が、房総への侵攻を開始。

8月23日、佐貫城に居た里見義弘は、三船山合戦で、北条軍を撃破。この里見軍の大勝を受けて、関宿の梁田氏、常陸の佐竹氏らが、再び、北条氏と手を切ることに。

永禄11年(1568)12月、武田信玄が、駿河国に侵攻。北条氏、今川氏、武田氏の三国同盟が破綻する。里見義弘は、北条氏に対して、攻勢に出る。

しかし、永禄12年(1569)6月、上杉謙信が北条氏と同盟を結ぶ。里見義弘は、上杉謙信との同盟を破棄。武田信玄と手を結ぶことになる。

元亀元年(1570)、里見軍は、下総国に侵攻。

元亀2年(1571)末、武田信玄が、再び、北条氏と手を結ぶ。里見氏は、北条氏に対して、劣勢に。

天正3年(1575)、里見氏、北条氏の対立が激化をする中で、里見義堯が死去。

北条氏は、再び、房総への侵攻を開始する。

北条氏、里見氏の攻防は、一進一退となるが、天正4年(1576)から天正5年(1577)にかけて、里見軍は、北条氏の攻勢を支えきれず、里見氏は、次第に、追い込まれる。

そして、天正5年(1577)11月頃、ついに、里見氏は、北条氏に屈服。

里見氏、北条氏の約40年に渡る戦いが、終結することに。

 

天正5年(1578)5月、里見義弘が、病死。

里見義弘は、義頼を後継者と決めていて、義弘の父、里見義堯もまた、義頼を後継者と認めていたのですが、里見義弘は、古河公方、足利晴氏の娘との間に、梅王丸をもうけることになる。義弘は、この梅王丸を後継者にと考えたようで、義頼は、父、義弘と対立。義頼は、独自の動きを見せることになる。

里見義弘の死後、後を継いだ梅王丸と、独自の行動を始めた里見義頼が対立。更に、小田喜に居た正木憲時が、里見氏から自立の動きを見せる。

天正8年(1580)4月、里見義頼は、梅王丸の勢力を圧倒。梅王丸は、降伏し、出家をすることに。

天正9年(1581)9月、里見義頼は、正木憲時の反乱を平定。

 

天正10年(1582)3月、甲斐国の武田氏が、織田氏によって滅亡する。

しかし、同年6月、本能寺で織田信長が自害。

関東の混乱の中で、里見氏は、北条氏と行動を共にする。

天正13年(1585)秋、里見氏は、豊臣秀吉と接触。

天正15年(1587)10月、里見義頼、病没。里見義康が、後を継ぐ。

天正18年(1590)、豊臣秀吉、小田原攻めを開始。

里見義康は、豊臣方として、小田原攻めに参加。

この時、里見義康は、一時、「鎌倉御再興」、つまり「足利的秩序の復活」を述べたスローガンを掲げたそう。

そして、小田原に参陣した里見義康は「上総国の没収」を、豊臣秀吉から告げられることに。これによって、里見氏の領国は、三分の一に。

里見義康は、安房に戻り、事態に対処。

同年7月、小田原城は開城し、北条氏は滅亡する。豊臣秀吉は、その後、宇都宮、会津黒川と移動しますが、里見義康は、どうも宇都宮参陣に間に合わなかったよう。

北条氏の滅亡後、関東には徳川家康が入り、上総国の里見氏領もまた、徳川家康によって接収されることになる。

 

ここに、里見氏の戦国時代は終わりを迎える。

戦国時代を生き抜いた里見氏ですが、豊臣秀吉、徳川家康という天下人の下で、大名としての苦難が始まります。

そして、里見氏は、悲惨な運命に向かうことになるのですが、それは、また。