雑誌「歴史街道」の今月号から、「足利尊氏」について。
足利尊氏は、室町幕府を開いた、初代の将軍。
しかし、鎌倉幕府を開いた源頼朝、江戸幕府を開いた徳川家康に比べると、どうも、世間の人気は、低いのではないかと想像するところです。
それは、なぜなのかと言えば、恐らく、足利尊氏という人物の行動にある。
足利尊氏の人生を見ると、行動に一貫性が無く、何を考えているのか、よく分からないところがある。
まず、なぜ、鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇の側についたのか。
この点からして、理由が、よく分からない。
さて、後醍醐天皇の側につき、鎌倉幕府を倒した足利尊氏ですが、「中先代の乱」の勃発に伴い、後醍醐天皇の指示に従わず、独自に鎌倉に出陣し、そのまま、鎌倉に居座ってしまった。
後醍醐天皇の「京都に戻れ」という指示にも従わず、ついに、討伐軍を派遣され、足利尊氏は、後醍醐天皇と戦うことになる。
そして、大義名分を得るため、足利尊氏は、北朝の天皇を建てる訳ですが、だからといって、南朝、後醍醐天皇を滅ぼそうという意思は無かったよう。
この点も、足利尊氏という人物を、分かり辛くさせている理由の一つ。
そして、弟の足利直義を信頼し、室町幕府の政治を全面的に任せる訳ですが、その直義と重臣の高師直が対立をすると、直義ではなく、高師直の方を支持することになる。
そして、尊氏は、直義と死闘を繰り広げることになる。「観応の擾乱」です。
これもまた、足利尊氏が何を考えていたのか、よく分からないところ。
この足利尊氏の「分かり辛さ」は、どこから来ているのか。
昔、読んだ本では、足利尊氏は「躁うつ病」「躁うつ気質」だったではないかと書かれているものがありました。
うまり、気分の浮き沈みが激しく、その時の気分によって行動をしているため、その行動が分かり辛くなっているという解釈。
しかし、その話は、最近は、見かけない気がする。
そして、最近、目にするようになったのは、足利尊氏が「無欲」な人間だったという説です。
この、足利尊氏が「無欲」だという話は、今回の「歴史街道」の記事にも書かれている。
確か、最近、直木賞を取った足利尊氏を主人公にした小説でも、尊氏は「無欲」な人間として描かれているという話だったと記憶しています。
恐らく、足利尊氏が「無欲」であったため、その行動に一貫性がなく、考えを分かり辛くさせているという理屈なのでしょう。
しかし、個人的には、この足利尊氏が「無欲」だったという説には、違和感があるところ。
果たして、時代の最高権力者が「無欲」だということなど、あり得るのか。
もしかすると、「物質的」には、尊氏は「無欲」だったのかも知れない。
実際、武士に恩賞を与える時にも、惜しみなく、大盤振る舞いをしていたような話を、昔、読んだ記憶があります。
しかし、個人的な印象としては、足利尊氏は「権力的」には、非常に、貪欲だった印象があります。
つまり、足利尊氏は、自分自身が「最高権力者」であることは、絶対に、譲らなかった印象。
それは、あれほど信頼をしていた弟の足利直義との対立にも表れていると思います。
恐らく、足利直義と足利尊氏が、泥沼の戦いをすることになったのは、直義が、自分自身の権力を脅かす存在になってしまったからでしょう。
これは、新田義貞との戦いにも表れていると考えられますが、その話は、また、改めて。
しかし、足利尊氏は、自分が「最高権力者」であるという立場を失いたくなかったのですが、一方で、後醍醐天皇には、かなりの親近感があり、本音としては「後醍醐天皇を相手に、戦いたくない」という意思を持っていたのだろうと想像します。
このことが、また、足利尊氏の行動が一貫性を欠き、分かり辛くなっている点。
恐らく、足利尊氏としては、最終的には、後醍醐天皇と和解をし、後醍醐天皇の元で、最高権力者としての自分を認めてもらうことが目標だったのではないでしょうか。
しかし、後醍醐天皇の政治思想は、あくまでも「天皇親政」で、武士が、権力の頂点に立つことは認めなかった。
そこに、後醍醐天皇、足利尊氏の間の齟齬が生まれ、室町幕府と南朝との戦いが、延々と続く原因になったのでしょう。
かつて、足利尊氏は、後醍醐天皇による「建武の新政」の中で、要職を与えられず、世間では「尊氏なし」と言われ、後醍醐天皇は、足利尊氏を警戒していたのではないかと言われていました。
しかし、今では、この説は否定をされているようで、記事によると、足利尊氏は、世襲をしていた三河国、上総国の守護職に加え、伊豆国、武蔵国の守護職、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国、下総国の知行国を拝領。さらに、全国30か所の地頭職も拝領している。
それに加えて、弟の足利直義や、尊氏の家臣たちもまた、多くの恩賞を貰い、政権の要職に就いているる訳で、後醍醐天皇は、足利尊氏を警戒し、政権から外そうとしていた訳ではない。
これは「承久の乱」以前の鎌倉幕府の権力に匹敵をし、実質上、日本の東半分の支配を、後醍醐天皇は、足利尊氏に認めたと考えられるということ。
そして、足利尊氏は、後醍醐天皇の元で、全国の武士の頂点にあった訳ですが、「中先代の乱」をきっかけに、二人は、対立をすることになる。
なぜ、足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ずに、鎌倉に向かったのか。
これは、当時、鎌倉将軍府の執権として鎌倉に居た弟の直義を助けたいという思いのためだったということ。
なぜ、足利尊氏は、後醍醐天皇の京都帰還命令を無視して、鎌倉に留まり続けたのか。
これは、一つは、足利直義によって、引き留められたということ。
そして、また一つは、「中先代の乱」の戦後処理のため、と、言うことのようです。
しかし、後醍醐天皇は、自分の命令に従わない足利尊氏の討伐を決断することになる。
そして、足利尊氏に代わる武士の統率者として後醍醐天皇が選んだのは、新田義貞。
この足利尊氏と新田義貞の戦いに関しては、また、別の機会に。