平安時代に書かれた日記文学である「土佐日記」。
名前は、知っていると言う人は、多いのではないかと想像します。
書いた人は、「紀貫之」という人物。
この紀貫之は、歌人として有名ですよね。
あの「古今和歌集」の選者でもある。
この「土佐日記」で、最も、特徴的なのは、冒頭部分、「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」という文章。
現代文に訳せば「男の人が書くという日記を、女である自分も試しに書いてみようと思う」ということ。
当然、紀貫之は、「男」なのですが、この「土佐日記」を書いたのは「女ですよ」と宣言をしている。
なぜ、紀貫之は、「女」として、この「土佐日記」を書いたのか。
それは、一つは「仮名文字」で、文章を書くため。
公家は、多く、日記を残していますが、男の書く日記は、「漢文」で書かれ、日々の出来事を淡々を記す、いわば「備忘録」のようなもの。
しかし、この「土佐日記」は、「仮名文字」で書かれ、しかも、当人の感情や、周囲の環境、人々の状況などが、「言葉遊び」や「ユーモア」を交えながら、書かれている。
この「土佐日記」は、後に登場をする「蜻蛉日記」「更級日記」などに、大きな影響を与えたということ。
つまり、この「土佐日記」は、後に続く、「日記文学」の先駆けとなった作品。
さて、この「土佐日記」には、土佐国の国守だった人が、任期を終え、土佐国から、京都に戻るまでの旅の過程が、書かれている。
当然、この前国守は、紀貫之。
12月21日に、前土佐守は、京都に帰るために出発をしますが、前土佐守の一向の京都への旅は、遅々として、進まない。
それから、京都にたどり着いたのは、ようやく、翌年の2月16日のこと。
何と、土佐から京都まで、55日。
当時の旅、特に、船旅が、如何に、大変なものかが、よく分かります。
もっとも、「土佐日記」に書かれていることの、どこまでが事実で、どこからがフィクションなのかは、よく分からない。
この「土佐日記」の主題の一つが、前土佐守の、土佐で亡くなった娘への追悼の思いということになるようですが、どうも、この時、紀貫之の年齢は、60代半ばと考えられているよう。
この年齢で、幼い娘が居たとは、なかなか、考えられないので、この「娘が亡くなった」というのは、フィクションではないかという説もあるようです。
さて、紀貫之が、土佐守だったのは、延長8年(930)から承平4年(934)までの5年間。
なぜ、すでに60歳前後という高齢で、土佐国という遠い国に、国司として赴任をしたのかと言えば、やはり、経済的に苦しかったからではないかという話。
大河ドラマ「光る君へ」でも、まひろ(紫式部)の父、藤原為時が、10年もの間、職に就けず、経済的に困窮し、「越前守」に任命されて、喜ぶシーンがありましたよね。
紀貫之は、歌人としては有名ですが、貴族としては、あまり、仕事に恵まれなかったようです。
ちなみに、紀貫之は、醍醐天皇の側近であり、参議も務めた「藤原兼輔」の家人となり、主従関係を結んでいたということ。
しかし、この藤原兼輔は、紀貫之が、土佐に居た時に、亡くなったそう。
ちなみに、この藤原兼輔は、紫式部の曾祖父になります。
藤原為時、紫式部の親子が住んでいたのは、この藤原兼輔から、代々、受け継いでいた屋敷だそう。
さて、この「土佐日記」の内容が、面白いのか、と、言われると、個人的には、残念ながら、あまり、面白いとは思えない。
現代人の僕には、当時の「言葉遊び」や「ユーモア」「パロディ」などが、理解できないからなのかなと思ったりもします。
しかし、一つ、面白い話が。
それは、「土佐日記」のラストの部分。
5年の任期を終えて、ようやく、前土佐守の一向は、京都の自分の屋敷に戻って来る訳ですが、なんと、隣の人に管理を任せ、土佐からも、隣人に贈り物をしたりして、気を遣っていたりしたのですが、屋敷は、荒れ放題で、酷い変わりよう。
一緒に土佐から戻ってきた一族郎党は、それを見て、大騒ぎをするのですが、前土佐守は、ぐっと我慢をし、隣人に、お礼だけはしなければと考える。
何だか、人の心は、何時の時代も同じだなと、思うところ。
さて、この「古典文学」というものは、書いた本人の「直筆本」は、早い時期に失われ、「写本」もまた、改ざんが多いのが当たり前で、元々が、どのような内容だったのかが、分からなくなってしまっているのが普通。
しかし、この「土佐日記」は、紀貫之の書いた「直筆本」が、室町時代までは、残っていたということが史料に残っているそう。
鎌倉時代までは、京都の蓮華王院の宝蔵に収められていたそうです。
その後、ある歌人の手に渡り、更に、その人から、室町幕府第8代将軍、足利義政に献上されたまでは、分かっている。しかし、その後は、行方不明。
しかも、藤原為家の書いた「写本」は、紀貫之の「直筆本」を、忠実に写したことが分かっているそうで、国宝に指定されている。
ちなみに、この「為家本」は、長年、行方不明だったのですが、1984年に、ある古本屋に持ち込まれ、「為家本」の本物だと確認されたそうです。
そして、最も、古い写本は、この藤原為家の父、藤原定家の書いた「写本」で、「直筆本」に忠実ではないものの、こちらも国宝に指定をされています。
僕が、この「土佐日記」を再読しようと思ったのは、「承平海賊」と関係があると知ったため。
この「承平年間」は、関東では、群盗が、瀬戸内では海賊が跋扈し、朝廷は、その鎮圧に苦心をしていた時期。
土佐から、海路を使って、京都を目ざす、前土佐守の一向は、この「海賊」の出現に警戒をしなければならなかった訳で、その話も、「土佐日記」の中には、登場します。
紀貫之らが、海賊に襲われることなく、無事に、京都に戻ることが出来たのは、幸運だったということになるのでしょう。
藤原純友、平将門の反乱が起きるのは、それから間もなくのこと。