人間魚雷「回天」とは、どのような兵器だったのか。
この本から。
元々、この「人間魚雷」という発想は、特殊潜航艇(甲標的)の乗組員だった仁科関夫少尉と、黒木博司中尉の二人によって、生まれました。「93式酸素魚雷」を改造して、人が乗って操縦し、体当たりをする魚雷を作ろうというもの。
しかし、当初、このアイデアは、「必死」を前提とする兵器は、認められないということで、却下されたということ。
しかし、1944年2月26日、二人の必死の交渉と、戦況の悪化により、極秘での試作が命令されることになる。
1944年7月、この「回天」に乗る搭乗員の募集が開始される。
この「回天」の搭乗員は、全て、志願をした人たちでした。決して、強制をされて乗った訳ではありません。
そして、志願者の中から、更に、その適正を見て、選抜されたそうです。
1944年9月1日、徳山湾の大津島に、「回天」の最初の訓練基地が開設されます。
他に、光、平生、大神の計4カ所の基地が開設され、「回天」の訓練が始まることになります。
訓練自体も、搭乗員にとっては、命がけのものだったそう。
「回天」を乗りこなすこと自体が困難だったのに加え、この時期、もはや、日本には、制空権も制海権も無く、敵機の機銃掃射に晒されたり、水中の機雷にも警戒しながらの訓練だった。
さて、「回天一型」は、まさに、93式酸素魚雷に操縦席をつけたもの。
基本的には、自動操舵で、搭乗員は、「回天」の進路を、ジャイロに設定すれば、「回天」は、その通りに進むことになる。
人力操舵は、この自動操舵の補助。
操縦室に乗り込むには、上部ハッチ、または、下部ハッチから入ることになる。
陸上基地から乗り込む時には、上部ハッチから。潜水艦に搭載された回天に乗り込む時には、下部ハッチから乗り込むことになる。
速度は、搭乗員が、手動で調整。
深度もまた、手動で設定。
外部観測、目標把握には、小型潜望鏡を使用。
もしかすると、「回天」は、「人間が操縦する魚雷」ということで、搭乗員が操縦をしながら、敵艦に向かって進むことが出来ると誤解をする人が多いのかも知れません。
自分が乗った「回天」を敵艦に命中させるには、まず、停止して、潜望鏡を出し、敵艦を確認し、潜望鏡を降ろし、敵艦の位置に向かって、航行を開始することになります。
つまり、「敵艦を見ながら」操縦が出来る訳ではない。
想定する地点まで来ても、敵艦に体当たりが出来なかった場合、また、停止をして、潜望鏡を出し、敵艦を把握し、潜望鏡を降ろし、また、敵艦に向かって進む。
こういう過程を取らなければなりません。
これは、非常に、危険なことであり、不合理なことでもあります。
潜望鏡を発見されれば、敵艦からの砲撃を受けて撃沈される可能性が高く、また、敵艦は、容易に「回天」を回避することが可能です。
そのため、この「回天」での戦果は、あまり芳しいものではなかった。
ちなみに、本格的な人間魚雷として開発が進められた「回天二型」は、途中で、開発中止。
同時に開発が進んでいた「回天四型」もまた、開発中止。
本土決戦に備えて開発が進められた「回天十型」は、試作が、わずかに作られただけで、終戦を迎えることになる。
「回天一型」は、靖国神社の「遊就館」に。「回天十型」は、「大和ミュージアム」に復元、展示されているそう。
この「回天」」は、故障によって、エンジンが点火されず、スクリューが回る「冷走」になる場合があったそう。
この「回天」が、故障を起した場合、または、目標の敵艦に体当たりが出来なかった場合、搭乗員は、自爆をすることになります。
つまり、一度、「回天」に乗り込んでしまえば、もはや、生きて帰ることは出来なかったということ。
この「回天」による戦果は、1944年11月20日、ウルシー環礁に停泊をしていた「ミシシネワ」というタンカー。1945年1月12日、同じ、ウルシー環礁での歩兵揚陸艇、一隻。1945年7月24日、駆逐艦「アンダーヒル」の撃沈。
人間魚雷「回天」が挙げた戦果は、たったの、これだけ。
これは、全ての「特別攻撃隊」に言えることですが、犠牲の大きさに比べて、戦果が、あまりにも少ない。
果たして、「特別攻撃隊」に、どれほどの意味があったのか。
当時の日本軍の上層部の無能さが、ここにも現れている。
そして、「特別攻撃隊」として出撃をした搭乗員たちの思いも。