京都で「応仁の乱」が起こってから、世の中は「戦国時代」になったと言われています。

この「戦国時代」に、室町幕府将軍が、何をしていたのか。

畿内の情勢は、とても複雑で、分かりづらい。

 

 

この本、前書きで「高校日本史程度の知識があれば、分かるように書いた」と書かれている通り、とても複雑で、分かりづらい、戦国時代の畿内の様相や、足利将軍の動きが、とても分かりやすく書かれています。

以下、その紹介です。

 

応仁元年(1467)に「応仁の乱」が発生し、京都で、11年も戦乱が続き、基本的は、「戦国時代」は、ここから始まったということになる。

なぜ、「応仁の乱」が発生し、11年もの長くに渡って続いたのか。

色々な理由があるのでしょうが、大きな要因の一つは、「室町幕府将軍の権力が弱かったから」と、言うことになるのでしょう。

つまり、守護大名たちが、将軍の言うことを聞かない。だから、戦乱が起こり、それが、長く、続いたということになる。

 

なぜ、室町幕府の将軍権力が弱かったのか。

それは、将軍の「直轄領」が少なく、「直属軍」も少なかったから、と、言うことになる。

なぜ、室町幕府の将軍は、直轄領が少なく、直属軍が少なかったのか。

それは、将軍と「守護」との関係に、大きな原因がある。

鎌倉時代もそうでしたが、そもそも「守護」とは、その土地を支配している訳ではありませんでした。

つまり「備前国の守護」に任命されたとしても、守護は、備前国を、「領国」として支配をし、備前国に住む武士たちを「家臣」として支配をしていた訳ではない。

当初、この「守護」とは、かつての「国司」のような存在であり、代々、ある家が守護を世襲するということはなく、守護は、そのつど、将軍が任命をするものだったそうです。

つまり、「守護」は、その国での「将軍の代官」だったということ。

つまり、全国の土地は、将軍の土地であり、全国の武士は、将軍の家来。そのため、将軍に、大きな直轄領や、大きな直属軍は、そもそも、必要の無いものだった。

しかし、室町幕府初期、「南北朝の戦い」「観応の擾乱」といった戦乱が、長く、続いたことで、第二代将軍、足利義詮は、この「守護」を世襲し、土地を支配することを認めたそうです。

ここから、国司のような存在と考えられていた守護は、土地と武士を支配する「守護大名」に変化をして行きます。

この結果、「守護大名」は、大きな力を持つことになってしまった。

相対的に、将軍は、その権力を弱めて行ったということになる。

 

そして、室町幕府の将軍は、この守護大名の支持によって、権力を保つことになる。

将軍が、守護大名をコントロールしている時には、良いのですが、守護大名たちが結束をして将軍の意向を無視するようになると、統制が効かなくなり、守護大名たちの暴走を、将軍は、止めることは出来ない。

その結果、起こったのが、「応仁の乱」です。

 

この「応仁の乱」の後、室町幕府将軍は、権力を失い、傀儡のようなものになってしまったと、これまでは言われていましたが、最近の研究では、引き続き、将軍は、一定の権力、権威を持ち続けたことが分かって来ています。

そして、それは、最後の将軍、第15代、足利義昭まで続くことに。

 

この「応仁の乱」が起こった時の将軍は、第八代、足利義政です。

この足利義政には、長く、男子が生まれなかった。

そのため、僧籍にあった弟の足利義視を、還俗させて、自分の後継者とします。

しかし、それから間もなく、日野富子との間、足利義尚という実子が生まれてしまった。

足利義政、日野富子は、当然、実子の足利義尚を跡継ぎにすることになりますが、だからといって、足利義視を排除することはしなかった。

これが、混乱を引き起こす一因にもなります。

「応仁の乱」の当初、足利義政、足利義視は、共に、東軍にありました。そして、東軍が有利に戦況を進めていたのですが、西国の守護大名、大内政弘が大軍と共に上洛をしたことで、西軍が、勢いを盛り返すことになる。

その中で、足利義視は、京都を離れ、伊勢国に出奔。義政は、義視を京都に呼び戻しますが、その直後から、二人は、激しく対立し、義視は、西軍に鞍替えをすることになります。

文明5年(1473)3月、西軍の総大将、山名宗全が死去し、5月には、東軍の総大将、細川勝元も死去。そして、12月、足利義尚が、征夷大将軍に任命され、第9代将軍となります。

足利義政は、西軍と和睦をし、「応仁の乱」は終結。足利義視は、美濃国に逃れることになります。

 

第9代将軍になった足利義尚は、まだ9歳。当然、実権は、父の義政が握っていました。

義尚は、成長をしても、なかなか、権力を譲られず、奇行に走ることもあったようですが、二十歳の頃から、ようやく、順次、権力を父、義政から譲られるようになる。

その中で、義尚は、次第に、父から独立をしようと動きを見せる訳ですが、長享元年(1487)、ついに、近江国の六角高頼の征伐に乗り出します。

この将軍、自ら親征をするというのは、第3代将軍、足利義満以来、約100年ぶりのこと。この時、義尚、23歳。

守護大名たちを従え、大軍と共に近江国に入った義尚は、六角高頼を攻撃。高頼は、大軍に為す術がなく、甲賀の山岳地帯に逃亡し、ゲリラ戦に転じます。

実は、足利義尚による近江国への親征は、父、義政の影響を離れ、自ら、政治を行おうという意図の元、行われたことのようです。義尚は、近江国の軍営に、京都から奉行衆を呼び出し、そこで、幕府の政治を始めます。

しかし、義尚は、この近江国の軍営で、病に倒れます。延徳元年(1489)、死去。享年25歳。

 

第9代将軍、足利義尚が急死し、次の将軍を、誰にするのか。

足利義政には、義尚の異母兄になる男子と、同母弟の男子が居たようですが、すでに、死去していました。

そのため、足利義政の異母兄、足利政知(堀越公方)の子で、僧籍にあった義澄と、足利義視の子、義稙の二人が、将軍候補として挙がります。

義澄は、まだ幼く、義稙は、母が、日野富子の妹ということもあり、第10代将軍は、足利義稙に決定します。

しかし、政治的権力を握り続けることに足利義政が、執念を燃やすことになる。

が、間もなく、その足利義政も、病気で死去。

 

第10代将軍に決定した足利義稙は、父、足利義視と共に、美濃国から京都に入ります。

この時、足利義稙の将軍としての正当性を保証したのが、日野富子だったそうです。

夫の足利義政の亡き後、足利家を代表するのは、その妻であり、前将軍の母だった日野富子ということになる。

足利義稙は、この日野富子の支持があるということで、将軍としての正当性を担保したということになるようです。

また、足利義稙は、有力守護大名の細川政元の屋敷で、将軍宣下を受けたそうで、これは、「細川政元が、義澄を支持している」という噂があり、これを否定するために行われたことのよう。

延徳2年(1490)7月、第10代将軍の足利義稙の誕生です。

しかし、足利義稙は、京都での政治経験が無く、それを支えることになるのが、父の足利義視です。義視は、自身の権力を強めるためか、日野富子を政治から排除。しかし、この直後に、義視は、病に倒れ、死去します。

京都に何の基盤も無い足利義稙は、自身の権力の強化のために、再びの「六角高頼征伐」を決行します。つまり、軍事によって、守護大名を率いることにより、自分の権力を強めようということ。

延徳3年(1491)8月、足利義稙は、大軍と共に、近江国に出陣。六角高頼は、大軍を相手に敗戦し、再び、甲賀の山岳地帯に逃げ込むことに。義稙軍は、近江国のほぼ全域を掌握し、六角高頼は、伊勢国に逃亡。

この勝利に、満足した義稙は、京都に凱旋します。

そして、次に、足利義稙は、河内国の畠山基家の征伐を決定。これは、有力守護大名、畠山政長の進言によるということ。ちなみに、「応仁の乱」の直接のきっかけになったのは、この畠山政長と、畠山義就の家督争いでしたが、この畠山基家は、畠山義就の嫡男ということで、父の死後に、後を継いでいた。つまり、畠山政長の宿敵です。

同時に、義稙は、越前国への親征も宣言。これもまた、有力守護大名、斯波義寛の進言を受けてのもの。当時、斯波氏の領国だった越前国は、家臣の朝倉氏に奪われつつあった。これを奪還しようというもの。

足利義稙は、このように、有力守護大名の意見を聞き入れ、戦争によって、自分の政治権力を強めようとしたのですが、河内国に親征をした最中、意外なことが起こります。

 

明応2年(1493)2月、足利義稙は、また、大軍と共に京都を出陣し、河内国に入ります。大軍を持って、畠山基家を圧倒した足利義稙でしたが、4月、なんと、京都で、細川政元が、反足利義稙の挙兵を決行。いわゆる「明応の政変」です。

細川政元は、足利義澄を担ぎ上げ、第11代将軍に擁立。この時、日野富子は、細川政元、足利義澄を支持。これが、将軍の正当性に繋がったようです。

この「日野富子が、細川政元、足利義澄を支持している」という知らせを聞いて、河内国に居た足利義稙の将軍の直臣の多くが、義稙を見捨てて、京都に戻ったそうです。

それだけ、足利家当主としての日野富子の存在は大きかったということ。

また、義稙に従っていた守護大名たちも、中立の立場を取るようになり、唯一、残ったのは畠山政長だけだったそう。

京都から攻めて来た細川政元軍に、最後まで抵抗した畠山政長は、自害。

足利義稙は、捕縛され、京都に移されることになります。

 

明応2年(1493)6月、足利義稙は、毒を盛られ、危うく、死にそうになったことをきっかけに、京都を脱出し、北陸に逃亡します。

畠山政長の領国だった越中国で、神保氏によって保護されることに。足利義稙は、周辺値域の武士を味方につけ、細川政元の送った軍を撃退。義稙は、京都に攻め上ろうという意図があったようですが、周辺の大名たちは、そこまでの支援をすることは無かった。

細川政元、足利義稙は、和睦交渉を進めますが、決裂。

義稙は、越前国に移り、朝倉氏の保護を受けます。

 

明応5年(1496)、日野富子が死去。京都の足利義澄は、有力な支持者を失うことになる。

この頃から、足利義稙、足利義澄は、自身の立場の維持に、苦労をすることになります。

将軍の系統が、足利義澄と足利義稙の二つに分かれ、守護大名たちも、どちらに肩入れをするべきか、迷うようになったということ。

将軍と距離を置き、積極的な関与はしない守護大名が増えることになる。

もちろん、それは、将軍を支持しないという訳ではなく、将軍の命令を聞かないという訳でもない。将軍は将軍として、その権威は認めつつも、守護大名たちは、積極的な支援には、及び腰ということ。

 

明応8年(1499)1月、畠山政長の嫡男、畠山尚順が、紀伊国で反細川政元の挙兵。たちまち、畿内の南部を制圧する。越前国の足利義稙は、この畠山尚順と連絡を取り、上洛を目指しますが、朝倉氏は、これに反対。やむなく、義稙は、手勢を率いて、7月に越前国を出陣。しかし、11月、近江国坂本で、義稙は、六角高頼軍の急襲を受けて敗北。周防国の大内氏の元に、逃走することになる。

また、畠山尚順も、細川政元軍に敗北し、畿内の反乱は、鎮圧される。

この足利義稙の脅威が無くなったことで、今度は、足利義澄、細川政元の間に、不協和音が起こります。

互いに、将軍、そして、それを支える重臣として、不和を抱えながらも、完全に決裂することは出来ない、微妙な関係が続きます。

足利義澄にとっては、細川政元の軍事力は、将軍という立場を維持する上で、どうしても必要なもの。

また、細川政元にとって、足利義澄という将軍は、自身の立場の正当性に繋がる大切なもの。

これまで、室町幕府の将軍は、多くの守護大名によって支えられていた訳ですが、ここに来て、将軍は、細川政元という一人の守護大名に支えられるだけになってしまったということになる。

 

そして、この細川政元が、家臣によって暗殺されるという事件が起こります。

きっかけとなったのが、細川家の後継者争いです。

男子の居ない細川政元は、九条家から、養子を貰います。細川澄之です。

しかし、この九条家から養子をもらうということに反発をした家臣の意を受け、政元は、澄之を跡継ぎにすることを諦め、阿波細川家から養子を貰い、跡継ぎにします。細川澄元です。

しかし、細川澄之を支持する家臣たちが、永正4年(1507)6月、細川政元を襲って、殺害。

澄之派は、一時、細川澄元と、その一派を京都から追い出しましが、反撃にあって、逆に、細川澄之は殺害されます。

細川澄元は、細川一門をまとめようとしますが、それは、上手く行かず、一門の有力者、細川高国と対立し、破れます。

永正5年(1508)4月、細川高国が、細川一門の当主となります。

この細川家の内紛により、細川家は、大きく、弱体化をしてしまいます。

それを、好機とみた周防国の足利義稙は、永正4年(1507)末、大内義興と共に、上洛を開始。京都の足利義澄は、足利義稙、大内義興が、大軍と共に京都に攻め上ると聞き、細川高国に支援を求めますが、なんと、細川高国は、義澄の要請を拒否して、義稙方に味方をすることになります。

永正5年(1508)4月、足利義澄は、京都を脱出。

同年6月、ついに、足利義稙は、京都に入り、再び、征夷大将軍に任命されます。日本史上、唯一、二度、征夷大将軍に任命された人物ということになる。

ちなみに、この二度の将軍任命ですが、足利義稙は「第10代」将軍という一代として数えるのが普通です。

 

再び、将軍になった足利義稙ですが、先代の足利義澄が、細川政元、一人に支えられていたのに対して、四人の有力守護大名に支えられていたそうです。

政元に代わって細川氏の当主になった細川高国。足利義稙の上洛戦を主導した大内義興。一貫して、義稙を支持し続けていた畠山尚順。同じ畠山一族である能登国の守護大名の畠山義元。

一方、近江国に脱出した足利義澄は、同じく、近江国に逃げていた細川澄元と手を組み、京都の義稙に対抗します。

これに対して、義稙は、細川高国を近江国に攻め込ませます。しかし、細川高国は、足利義澄に大敗。これを契機に、本拠地である四国阿波国に戻っていた細川澄元が挙兵をし、畿内に侵出。播磨国の赤松義村もまた、これに呼応します。

周囲を敵に囲まれた足利義稙は、一時、細川高国の領国である丹波国に移動。足利義澄が、再び、京都に入るかと思われたのですが、なんと、ここで、足利義澄が急死します。享年32歳。(1511年8月)

足利義澄の急死を受けて、足利義稙は反撃を開始。「船岡山の戦い」で、義稙軍は、主を失った義澄方の軍勢を破り、京都に戻ります。

 

京都に戻った義稙ですが、1513年3月、義稙は、たった二人の家臣を連れて、京都から出奔します。

細川高国、大内義興、畠山尚順、畠山義元の四人は、驚き、「義稙の命令には、絶対に服従します」と起請文を作成し、近江国甲賀に居た義稙を、京都に連れ戻します。

この足利義稙の京都出奔は、この四人の有力守護大名を自身に従わせるために行われたもので、畿内は、しばらくの間、平穏を取り戻すことになります。

しかし、その後、永正15年(1518)8月、大内義興が、京都を離れ、帰国をすることになります。これは、大内義興の領国で、尼子経久の台頭など、情勢が不安定になって来たため。

また、能登国の畠山義元も、これより先に、領国の情勢不安定により、帰国していた。

また、畠山尚順は、息子の稙長と対立し、家中が分裂を始めていた。

このような足利義稙政権の弱体化を見て、永正16年(1519)、細川澄元が挙兵し、四国から畿内に侵出。播磨国の赤松氏もまた、これに呼応。

足利義稙は、細川高国に迎え撃たせますが、敗北し、京都に逃げ帰る。高国は、近江国に脱出することを義稙に求めますが、義稙は、これを拒否し、高国を見放し、細川澄元と手を組む決断をする。

高国は、近江国に逃亡。入れ替わりに、三好之長が率いる細川澄元軍が、京都に入る。

細川澄元は、この時、病だったので、京都に入ることが出来ず、そのまま死去。

細川澄元の死を受けて、近江国の細川高国は、六角定頼の支援を受けて反撃を開始。

三好之長は、細川高国軍に敗北し、捕らえられ、殺害されます。(1520年5月)

細川高国は、京都に入り、足利義稙と和解。しかし、すぐに、対立が起こり、大永元年(1521)3月、足利義稙は、京都を出奔し、堺に移る。

 

この時、畿内には、足利義稙の他、将軍を継ぐことが出来る足利一族は、居ない状況だった。しかし、細川高国は、足利義晴を、将軍に就けることになる。

この足利義晴とは、何者か。

実は、第11代将軍、足利義澄は、二人の息子、足利義維、足利義晴を、有力守護大名の元に送っていた。足利義維は、四国阿波国の細川澄元の元に。足利義晴は、播磨国の赤松義村の元に。どちらが、足利義澄の嫡男で、どちらが年上かも、不明。

この細川高国による足利義晴の擁立を知った足利義稙は、畠山尚順と共に、挙兵をしますが、兵が集まらず、淡路島に移動。その後、阿波国で亡くなることに。享年58歳。(1523年)

 

実は、足利義晴を擁立するに当たり、細川高国は、赤松義村の重臣、浦上村宗と手を結ぶことになる。この浦上村宗の協力により、足利義晴は、京都に送られ、第12代将軍に就任することに。大永元年(1521)12月。この時、義晴、11歳。

細川高国は、将軍、足利義晴を支えることになるのですが、1562年7月、家臣の香西元盛を誅殺したことをきっかけに、有力家臣の柳本賢治、波多野元清(この二人は、香西元盛の兄弟と言われている)が丹波国で反乱を起します。細川高国は、丹波国に軍を送りますが、大敗。更に、柳本、波多野の二人は、細川晴元(細川澄元の子)と手を組み、細川晴元は、四国阿波国から、堺に上陸。

細川高国は、「桂川の戦い」で、柳本賢治の軍勢に敗北。

大永7年(1527)2月、細川高国は、足利義晴と共に、近江国に脱出します。

 

この時、堺の細川晴元は、足利義維を同行していました。

この堺の足利義維もまた、世間からは将軍と同等と見なされたそうで、「堺の室町殿」「堺の大樹」と呼ばれたそうです。

実際、足利義維は、堺で、将軍と同じ書状を発給し、将軍のような振る舞いを見せていた。

畿内に、二人の将軍が存在をしたということになる。

しかし、細川晴元、足利義維は、なぜか、京都には入らなかった。そこで、近江国の細川高国は、反撃に出ることに。細川高国は、周辺の守護大名の支援を受け、大軍を率いて京都を奪還。しかし、堺の細川晴元は、柳本賢治を軍勢と共に派遣し、京都に迫る。

ここで、細川高国は、奇妙な行動に出ます。大軍を擁しながら、戦おうとせず、柳本賢治は、やすやすと京都を奪還。細川高国は、細川晴元に和睦を申し出ることになる。

しかし、細川晴元は、この和睦を拒否し、細川高国を支援していた諸大名の大軍もまた、晴元側に寝返り、高国と足利義晴は、近江国に脱出します。(1528年5月)

 

細川高国を京都から追い出した功労者の柳本賢治でしたが、1530年6月に、暗殺されます。この刺客を送り込んだのは、細川高国でした。

近江国に脱出していた細川高国は、勢力挽回のため、伊勢国、伊賀国、越前国、備前国にまで、足を伸ばします。そして、播磨国の赤松晴政、浦上村宗の協力を得て、柳本暗殺の刺客を送ったそう。

この暗殺の成功を受けて、細川高国は、播磨国で挙兵。近江国に留まっていた足利義晴と協力し、京都に迫ります。

しかし、「天王寺の戦い」で、高国は、赤松晴政の裏切りに遭います。この赤松晴政の裏切りにより、細川高国軍は、総崩れとなり、浦上村宗は戦死し、高国は、生け捕りになります。

細川高国は、摂津国尼崎で、自害。享禄4年(1531)6月。享年48歳。

 

細川高国を倒し、細川晴元は、自身が擁する足利義維を将軍にするのかと思われたが、そうはならなかった。晴元は、足利義晴との和睦を求める。また、この頃、晴元の重臣、三好元長が台頭を始めていた。

この三好元長は、自身の権力強化のため、柳本賢治の後継者だった柳本甚五郎を討つ。

しかし、これに、細川晴元が激怒。細川晴元は、山科本願寺の力を借りて、三好元長を討ち取る。天文元年(1532)6月のこと。

しかし、この時、山科本願寺の起した一向一揆は、一部が暴徒化し、奈良で激しい暴動を起す。そのため、細川晴元は、近江国で足利義晴を支援していた六角定頼と手を組み、山科本願寺の攻撃に乗り出す。

天文2年(1533)8月、細川軍、六角軍は、山科本願寺に攻め込み、焼き討ち。

細川晴元は、足利義維を阿波国に戻し、足利義晴を京都に迎えることになる。同年9月のこと。

足利義晴は、細川晴元、六角定頼の支持を受けて、政治を行うことになる。

 

細川晴元、六角定頼の支持によって足利義晴の支配する京都は、しばらく、安定を保つ。

しかし、天文15年(1546)9月、細川晴元が、細川氏綱と戦って大敗し、京都を追い出されることになる。

同年12月、足利義晴は、近江国坂本に赴き、支援者である六角定頼を烏帽子親にして嫡男、義輝を元服させ、将軍の地位を譲ることに。義輝、11歳。

そして、足利義晴は、細川氏綱に接近するが、それに対抗する細川晴元は、また、足利義維を担ぎ、畿内に攻め込む。

これに困惑をしたのが六角定頼で、定頼は、義輝の烏帽子親であると同時に、細川晴元に娘を嫁がせていた。定頼は、何とか、義晴と晴元を和解させようと、晴元と手を組み、大軍を持って、足利義晴の立てこもる北白川城を包囲し、細川晴元との和解を強要。義晴は、それを受け入れることになる。

足利義晴と和解をした細川晴元は、また、足利義維を阿波国に戻す。

 

また、細川晴元、六角定頼に支えられ、足利義晴政権は安定するかと思われたのですが、天文18年(1549)6月、細川晴元が、重臣の三好長慶と対立して、敗北。足利義晴、将軍、義輝と共に、晴元は近江国に脱出する。

そして、天文19年(1550)5月、足利義晴は、近江国で、病死。享年40歳。

 

父、義晴を失った時、第13代将軍の足利義輝は、15歳。

ここから、足利義輝と、三好長慶との戦いが始まる。

しかし、足利義輝は、三好長慶に対して、劣勢。

その中で、重臣の伊勢貞孝が、裏切り、三好長慶の元に逃亡する。天文20年(1551)1月のこと。

同年3月、足利義輝は、三好長慶の暗殺を謀るが、失敗。

天文21年(1552)1月、足利義輝は、三好長慶と和解をし、近江国から京都に戻る。

 

京都に戻った足利義輝は、細川晴元と手を切り、三好長慶と手を組むことに。

しかし、細川晴元は、三好長慶との戦いで、次第に、勢いを取り戻す。

これを見て、足利義輝は、また、三好長慶と手を切り、細川晴元と手を結ぶことを決断する。しかし、天文22年(1553)8月、足利義輝、細川晴元は、三好長慶に破れ、近江国に脱出する。

この時、三好長慶は、「将軍に従い、近江国に逃げる者は、その領地を没収する」と宣言したので、将軍の直臣の多くが、義輝に従わず、京都に残ることになる。三好長慶は、彼らを従え、政権運営に乗り出した。

 

近江国、朽木に居た足利義輝は、大坂本願寺と、越前国朝倉氏の間を仲介し、和解させる。

これを契機に、義輝は、本願寺と手を組み、三好長慶に対抗。

永禄元年(1558)3月、足利義輝は、細川晴元と共に、三好長慶と交戦し、互角に戦う。

同年12月、足利義輝は、三好長慶と和解をし、京都に戻る。

足利義輝は、三好長慶に支えられ、政権運営を行うことになるのですが、間もなく、三好一族の中で、有力者が、次々と、戦死、病死で亡くなり、長慶の嫡男、義興も亡くなり、三好氏内部が混乱。三好長慶自身も、1564年に、亡くなってしまう。

 

三好一族が混乱をする中で、足利義輝は、権力強化に乗り出す。

伊勢貞孝を粛正し、近臣の摂津晴門に政所頭人を任せる。

全国各地の戦国大名たちの争いに介入し、仲裁や、和解を働きかける。

越後国の上杉謙信を厚遇し、自身の支持をさせる。

 

しかし、永禄8年(1565)5月、三好長慶の後を継いでいた三好義継と、その重臣で、松永久秀の息子、松永久通の軍勢が、義輝の屋敷を大軍で包囲。

三好、松永の軍勢は、屋敷に攻め込み、足利義輝を殺害してしまった。

 

将軍殺害の知らせは、日本全土を驚かせた。

二年後に行われた足利義輝の法要には、畿内とその近隣から、7、8万もの人が集まったということ。

 

さて、第14代将軍の足利義栄、第15代将軍の足利義昭については、織田信長との関係で、知っている人も多いと思うので、ここでは、省きます。

ちなみに、足利義栄は、足利義維の子。

この足利義栄もまた、父と同じく、京都に入ることは出来なかった。

最後は病死と言われていますが、この本では、真相は、行方不明になったように書かれていましたね。

 

ちなみに、南北朝時代には、「天皇」を担ぐことが重要な意味を持っていましたが、この戦国時代には、「将軍」を担ぐことが、重要な意味を持っていた。

それだけ、「将軍」には、権威があり、利用価値があったということなのでしょう。

 

戦国時代は「下剋上」の時代と言われていますが、やはり、「主」を殺害するということは、大罪だったということ。

そして、「将軍」は、敬わなければならない存在であり、大名たちが、自身の正当性を主張するためにも必要なものだった。

 

織田信長は、「中世の破壊者」のように言われて、「将軍」を傀儡にしようとしたと言われていますが、それが、間違いであるということは、近年の研究で明らかになっている。

織田信長が、将軍、足利義昭を京都から追放し、その後、室町幕府が消滅してしまうのは、結果論に過ぎない。

足利将軍、室町幕府が消滅してしまった理由は、色々とあるのでしょうが、最後の将軍、足利義昭まで、その権威を持ち続けたのは確かです。

その辺りの経緯は、また、いつか、紹介することもあるのかも。