さて、今後、大河ドラマ「光る君へ」を見るにあたって、ぜひ、読んでおかなければならないだろうと思い、こちらを購入し、読了。

 

 

この「紫式部日記」ですが、当初、想像していた以上に、面白い。

当時の公家、そして、一条天皇、中宮の彰子、それに使える女房たちの素顔を知ることが出来て、「このエピソードが、これから、大河ドラマで、どう描かれるのか」と想像すると、楽しみです。

 

彰子が、最初の親王を生み、誕生50日のパーティーが行われた時、(ロバート秋山さん演じる)藤原実資は、女房に近寄り、衣の裾や袖口を見て、その枚数を数えていたそうです。

これは、女房たちに、ちょっかいを出していた訳ではなく、一条天皇が命じた倹約令を、女房たちが、ちゃんと守っているのかどか、確認をしていたのだということのよう。

実資の堅物さが、よく分かります。

 

また、(宮川一朗太さん演じる)藤原顕光のポンコツぶりも、色々と、記されているようです。

どうも、無能で、有名だったようですね。

 

また、親王を溺愛する道長の姿も、微笑ましい。

 

さて、個人的に興味があるのは、やはり「紫式部」と「源氏物語」の関係。

 

紫式部が「源氏物語」の作者だと考えられているのは、この「紫式部日記」に書かれた内容から、推測が出来るということのよう。

もっとも、紫式部本人が「私が『源氏物語』を書きました」と、直接に、書かれている訳ではない。

いわゆる、状況から、紫式部が、作者だということが分かるということのようです。

 

中宮、彰子が出産を終え、内裏に戻ることになるのですが、その時、彰子は、「源氏物語」の豪華本の製作を始めることになります。

この「源氏物語」の豪華本は、一条天皇に見せるためと考えられているそうです。

この時、豪華本製作の中心になったのが、紫式部だそうで、その時の状況が、日記に、詳しく書かれています。

道長もまた、紫式部の仕事を、全面支援。

この時、紫式部は、自宅にあった原稿を、局に持って来て、隠していたのですが、道長が、勝手に、探し出して持ち出し、ある女性に、あげてしまったそうです。

どうも、この原稿は、推敲前のものだったようで、これで、評価が下がってしまうことになるだろうと、紫式部は、残念がっています。

この「源氏物語」の原稿が、紫式部の自宅にあるということは、そこで、原稿を執筆していたということですよね。

 

また、上に書いた親王の誕生50日の祝いのパーティの時に、(町田啓太さん演じる)藤原公任が、紫式部に対して「この辺りに、若紫さんはお控えかな」と声をかけたそう。

紫式部は、「私が、紫の上だなんて、とんでない」と思い、返事をしなかったということ。

 

一条天皇が、女房に「源氏物語」を朗読させながら聞いていた時に、天皇は、「この作者には、日本書紀の講義をしてもらわなければならないな。実に、漢文の素養がある」と、冗談を言ったそうで、その話を聞いた「左衛門の内侍」という女性が、紫式部に「日本書紀講師女房」というあだ名を付けたそう。

 

ある時、彰子の傍らに「源氏物語」が置かれているのを見た道長は、「お前は、(『源氏物語』の作者なので)『すきもの』と評判だが、お前を口説かない男は居ないと思うが、どうか」という和歌を詠み、紫式部に送ったそう。

紫式部は、その和歌に「男性経験も無いのに、誰が『すきもの』などと言っているのか。本当に、心外だ」という和歌を返したそうです。

 

以上の「紫式部日記」に書かれたエピソードを見ると、「源氏物語」を書いたのは、紫式部で、間違いないですよね。

もっとも、今、伝えられている「源氏物語」の全てを、紫式部が一人で書いたのかどうかは、疑問の残ることでしょう。

 

さて、この「紫式部日記」は、不思議な構成をしているそうです。

 

まずは、寛弘5年秋の彰子の出産から、翌年1月3日までの記録部分。

次に、「消息体」と呼ばれる、「このついでに」から始まる、手紙文体の部分。

次は、年次不詳の断片的エピソードが、いくつか。

最後に、寛弘7年1月1日から1月15日までの、記録部分。

 

なぜ、このような構成になっているのかは、不明だということ。

そして、「消息体」と呼ばれる手紙文体の部分は、本当に、手紙が、ここに入ったのか、それとも、エッセイ的な要素として、意識して、その部分は、手紙文体で書いたのかは、意見が分かれているそう。

 

有名な、清少納言を痛烈に批判しているのは、この「消息体」の中でのこと。

 

なぜ、紫式部は、清少納言を、痛烈に批判したのか。

それは、やはり、「定子」の後宮と、「彰子」の後宮との対立という側面が大きいよう。

定子は、すでに、10年も前に亡くなり、今、中宮は、彰子であり、紫式部は、この彰子に仕えている。

しかし、この時もまだ、「定子の後宮は、素晴らしかった」という話が、公家たちや、内裏の中にあり、それは、清少納言の書いた「枕草子」の影響で、それは、とても大きかったということ。

紫式部は、何とか、この「枕草子」が語り伝える「定子と、その後宮」のイメージを、払拭しなければならなかった。

それが、清少納言への厳しい批判にも繋がったということになるよう。

 

ちなみに、「女房」として、出仕をするということは、当時の女性にとって、あまり良いこととは思われていなかったそうですね。

それは、当時の女性は、家の奥に居て、みだりに人前に姿をさらさないことが良いとされていたから。

しかし、女房になれば、多くの人と関わり、人前に姿をされすことになる。

これは、当時の認識としては「女性として、みっともない」という考えがあったようです。

 

また、出仕当初、紫式部は、女房としての心構えも無ければ、熱心に仕事に取り組もうという意思も無かったようですね。

しかし、時が経つにつれて、紫式部は、女房として成長し、彰子の信頼を得ることになる。

また、彰子の後宮の問題点を指摘し、その改善を求める文章も、この「日記」の中に記されている。

紫式部が、そのような考えを持った以上、やはり、清少納言と「枕草子」は、彰子のために、越えなければならない存在ということになる。

 

さて、この「紫式部日記」の中から、どれほどのエピソードが、「光る君へ」で描かれるのでしょう。

もっとも、ビギナーズ・クラッシックには、「日記」の全文が収録されている訳ではないので、まだまだ、面白い話がたくさんあるのでしょうね。