以前、このブログで「登山に興味が無く、山岳小説を読んだことが無い」という話を書いた時に、「新田次郎の小説が面白い」とコメントを頂きましたので、早速、本屋で、探してみました。
「新田次郎」という作家が「山岳小説」で有名であることは、以前から知っていました。関心が無い訳では無かったのですが、やはり、「登山」というものに興味が無いので、なかなか、読んで見る気にはなれなかった。
ちなみに、新田次郎さんは、時代小説でも有名で「武田信玄」は、名作の一つでしょう。
こちらもまた、読んでみようかと思ったことはあるのですが、なぜか、これまで、読む機会は無かった。
さて、新田次郎と言えば、この「武田信玄」と、「八甲田山死の彷徨」が有名でしょう。
「八甲田山死の彷徨」は、映画にもなっていて、昔、見た記憶がある。
しかし、あまり、有名なものを読んでもつまらないと思ったので、取りあえず、短編集の「強力伝・孤島」を購入。
最初の二作、「強力伝」と「八甲田山」を読了。
新田次郎さんは、この「強力伝」で、直木賞を受賞しているそうですね。
読んで見ると、なかなか、面白いのですが、やはり「登山」というものに、ほぼ、知識の無い僕にとっては、なかなか、文章を読んでいるだけでは、イメージのしづらい部分もある。
この「強力伝」は、実話を元にした物語だそうですね。
主人公「小宮正作」は、当時、富士山観測所で強力をしていた「小宮山正」がモデルだということ。
この「強力」とは、重い荷物を背負って、山を登る仕事をしている人たちのこと。
今では、ヘリコプターを使って、険しい山の上にも重い荷物を運ぶことが可能ですが、かつては、人の力に頼るしかなかった。
ちなみに、女優の「剛力彩芽」さんが居ますが、この「剛力」という名字は、かつて、先祖が「強力」をしていたことから付けられてものだろうと、以前、ある番組で話をしていました。
さて、物語は、人並み外れた強力である小宮が、白馬岳の山頂に設置をする風景指示板の巨石、二つを、山頂まで担いで登るという物語。
一つが、約187キロもあるそうですね。
それで、信州の強力たちは、誰も、この仕事を引き受ける人が居なかった。
そこで、名乗りを挙げたのが、富士山で最強の強力だった小宮。
小宮は、地元の強力、鹿野の助けを得て、この仕事を成功させることになる。
実際、この風景指示板と小宮山さんの写真がネットの中にあったので、見ていると、この巨大な石を、この人が背負って運んだのかと、驚きです。
そして、「八甲田山死の彷徨」の元になったと思われる短編「八甲田山」も、この短編集に収録されていて、興味を持って、読んだところ。
この短編は、とても、簡潔にまとめられていた印象です。
こちらもまた、史実を元にしている。
それは「八甲田山雪中行軍遭難事件」と呼ばれるもの。
1902年1月、日本陸軍第八師団の青森歩兵第五連隊が、青森市から八甲田山、田代新湯に向かう途中で強力な寒波に見舞われ、遭難をしたもの。
参加をした210名中、199名が亡くなったという近代登山史の中では、世界最大の遭難事件だそうです。
この雪中行軍は、冬のロシアの侵攻に備えて行われた訓練だそうですね。
ロシアの侵攻により、物資の輸送を人力で行うことが可能かどうかを検証するのが主な目的だったということのよう。
1月23日から、一泊二日の予定で、最難関と思われる青森から田代温泉の間は、約20キロの距離だったそうです。
どうも、この第五連隊の雪中行軍は、かなり、軽く考えられていたようで、物心両面で、備えが不足をしていたということのよう。
それが、大規模な遭難に繋がってしまった。
実は、この時、弘前歩兵第三十一連隊もまた、同様の訓練を行う計画を、第五連隊とは別個に計画をしていたそう。
この歩兵第三十一連隊の雪中行軍訓練は、新聞でも報道されていたそうで、第五連帯側は、気がついていた可能性もあるよう。
日程は、1月20日から、11泊12日。総延長224キロの行軍。
こちらは、弘前から、田代、青森を回り、また、弘前に戻る。
三年がかりで続けられていた演習の総決算で、十分な計画と準備がされていたようです。
映画では、この第五連隊と、第三十一連隊の行動が対比がされていたのを、何となく、覚えている。
猛烈な吹雪に巻き込まれ、困難を極める第五連隊と、順調に雪中行軍を進める第三十一連隊。
長編の「八甲田山死の彷徨」の中には、この第三十一連隊の行動も記されているのでしょうが、短編の「八甲田山」の中には、第三十一連隊のことは登場しない。
小説の中で、最終的に、第五連隊の先頭に立って、生存者を引っ張ったのは江藤伍長ですが、この江藤伍長が、立ったまま、意識を失った状態で、救援隊に発見されたシーンは、映画の中にもあり、見た記憶がある。
実際は、後藤という名前だったようですね。
小説の中では、歴史に残る記録的な寒波の中(北海道の旭川では、マイナス41度を記録したそう)で、雪中行軍を行ったことが大規模遭難の原因のように書かれていますが、この第三十一連隊の行動を見ると、やはり、第五連隊の方は、冬の雪山を、甘く見ていたということになるのでしょう。
その辺りの事情は、長編の「八甲田山死の彷徨」には書かれていたのでしょう。
そのうちに、読んでみないと。