今日は、倉敷市郷内地区にある木見駅の方に行ってみました。

 

JR瀬戸大橋線、茶屋町駅から児島駅に向かう途中に、木見駅は、あります。

木見駅を、南から見たところ。

 

さて、今日、ここに来たのは、宝篋印塔、そして、「波止岡の首切り地蔵」を見るため。

 

こちらに、標柱が。

「波止岡の首切り地蔵・血洗の池」と書かれています。

 

「波止岡」という名称から、昔は、この辺りまで海が迫っていたことが分かります。

 

さて、まずは、「首切り地蔵」とは、何か。

 

宝篋院塔の隣に、お地蔵さんが祭られているお堂。

更に、その隣に、南無阿弥陀仏の石柱が。

石柱の前には、六地蔵がありますね。

 

 

お堂に近づき、中のお地蔵さんを覗いてみたかったのですが、道路との境に縄が張られていて、入っては駄目なのかと思い、道路から眺めただけ。

お堂の中には、左に、大きなお地蔵さん、右に、小さなお地蔵さんがあるのが見えました。

 

帰ってから、ネットで調べてみると、この、大きな方のお地蔵さんは、室町時代に製作をされたものだそうです。

そして、小さなお地蔵さんの方は、最初から、首と胴体が切り離されて作られていて、製作年代は、不明だということ。

この小さいお地蔵さんが「首切り地蔵」なのでしょう。

 

なぜ、このような「首切り地蔵」が作られてのか。

 

元々、この地には「刑場」があったそうですね。

罪人の首を斬り落とし、その刀の血を洗ったのが、「血洗の池」では、かつて、このお堂がある場所の背後、つまり、今の公園広場のある辺りに、あったよう。

昭和の後半頃までは、沼地として残っていたそうです。

 

この二体の地蔵は、この刑場で処刑をされた人たちの供養のために作られたもののよう。

宝篋院塔、そして、「南無阿弥陀仏」の石碑もまた、そうなのでしょう。

 

宝篋院塔が建てられたのは、天明2年(1782)だそう。

「壬寅十一月十五日・施主・三沢平右衛門武定」とあるようです。

 

お堂の後ろに、木見駅です。

 

さて、こちらは、線路の、すぐ脇にある旧由加街道の常夜灯。

お地蔵さんもありますね。

 

さて、この「首切り地蔵」と呼ばれるお地蔵さんは、他にも、全国に、いくつかあるそうですね。

由来、伝承は、様々なようです。