個人的に、関心を持っている「足利直冬」という人物について。

この本から、改めて。

 

 

足利直冬は、足利尊氏の庶長子と言われています。

しかし、生年は、定かではないよう。

母親は「越前局」と言われていますが、その名前もまた、定かではない。

相当に、身分の低い女性だったようで、もしかすると遊女だった可能性もあるのかも。

「太平記」の記述によれば、一度だけ、足利尊氏と越前局との間に、関係があったということ。直冬の幼名は「新熊野」。果たして、事実なのかどうか。

 

しかし、越前局は、生まれた子供が、足利尊氏の子供だということを確信していたようで、直冬は、尊氏の子として育てられることになる。

「足利将軍家系図」によれば、嘉暦2年(1327)、尊氏、23歳の時の子ということになる。

嫡男である義詮より、3歳、年上。ちなみに、義詮の母は、正室の赤橋登子。

 

実は、尊氏には「竹若」と呼ばれる、義詮よりも年上の子が居たそうですね。

この竹若の母は、加子基氏の娘。

この竹若と、直冬のどちらが年上だったのかは、明確ではないそうですが、竹若の方が、年上だった可能性が高いよう。つまり、直冬は、尊氏の次男ということになる。

ちなみに、竹若は、伊豆山神社に住んでいたそうですが、尊氏が、後醍醐天皇に味方をし、鎌倉幕府に謀反を起したことで、尊氏に合流するため、山伏の姿で上洛をしようとしたところ、駿河国で、幕府の使者に殺害されたそう。

 

直冬は、成長して、鎌倉の臨済宗寺院、東勝寺の「喝食」になったそう。

この「喝食」とは、禅寺の役職の一つで、子供が務めるものだったそうです。

この頃の、直冬の事を伝えるものは、何も、残っていないそう。

この東勝寺は、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込んだ時、北条高時、以下、千人余りが、自害をした場所でもある。

恐らく、この時、まだ、直冬は、東勝寺に居た。

これもまた、事実だったのだとすれば、鎌倉幕府の滅亡と、北条高時以下、大勢の人たちが自害をする様子を見て、どう思ったか。

 

貞和元年(1345)頃、直冬は、還俗して、東勝寺の僧、円林と共に、上洛。

直冬は、尊氏との対面を望んだが、尊氏は、それを許さなかった。

直冬は、京都で、独清軒玄彗法印という人物の元で、勉強をしながら、生活をしていたそう。

そして、玄彗法印は、直冬のことを、尊氏の弟、直義に話す。

直義は、直冬と尊氏の間を取り持とうとしたのだが、尊氏は、面会を許さない。

そして、子の無かった直義は、直冬を養子とすることにし、「直冬」と名乗らせる。その時期は不明だということ。

 

当時は、DNA鑑定など、無い時代。突然、現れた、自分の子供だと主張をする直冬のことを、尊氏は、どう思ったのか。

「自分の子供ではない」と、完全に、拒絶をすることも出来たのでしょうが、尊氏は、不信感を持ちながらも、直冬を、自分の子供ではないと断定をすることは無かった。その辺りの事情は、どうも、よく分からないところ。自分の子供ではないと、完全否定をすることが出来ない何かを、直冬が、持っていたということなのでしょうか。それとも、何か、他に、理由があったのか。

 

貞和4年(1348)、直義は、紀伊地方で蜂起した南朝勢力の討伐に、直冬を大将にして派遣することを尊氏に提言。

直冬は、従四位下左兵衛佐に任命され、討伐軍の大将として出陣。

この時の直義の書状が、足利直冬が、確かな史料に登場する最初だということ。

この時、直義は、全国の武士に、軍勢催促状を発給し、直冬を支援。

5月28日、直冬は、出陣し、東寺に宿泊。

6月18日、紀伊国に向けて、出発をする。

8月8日から、直冬軍、戦闘を開始。

9月28日、南朝方の軍勢を鎮圧し、目的を達成して、引き上げる。

 

足利直冬の初陣は、成功に終わる。しかし、足利尊氏を始め、仁木義長、細川顕氏ら、その側近たちは、この直冬の活躍を、快く思わなかったよう。

この京都での様子を見て、直義は、直冬を、一時、京都から離れさせた方が良いと判断し、「長門探題」に任命し、西国に下向させることにした。

貞和5年(1349)4月、直冬は、備後国浄土寺に、西国への下向を知らせ、祈祷を命じる。

この「長門探題」は、常設の役職ではなく、直冬を、京都から遠ざけるために設けられた役職と言える。

この時、評定衆、奉行衆らの家臣が、直冬に付けられたよう。恐らく、彼らが、その後の直冬の活動を支えることになる。

4月11日、直冬は、京都を出発。しかし、直冬は、長門に向かわず、備後国の鞆に留まり、勢力の拡大を目指すことになる。この頃、京都では、足利直義と、高師直を対立が激化していて、直冬が、備後国鞆に留まったのも、その関係で、京都の直義を支援するためだったと考えられる。

京都では、高師直との対立に敗れ、直義が、失脚。直冬は、備後国鞆から上洛をしようとしますが、播磨国の赤松則村によって阻止される。

9月29日、足利尊氏、高師直による「直冬討伐」の命令を受けた杉原又三郎の軍勢が、直冬の居た宿所を襲撃。直冬は、かろうじて脱出し、肥後国の河尻幸俊の船に乗り込み、九州の肥後国に向かうことに。家臣たちも、続いて、直冬の後を追う。

 

この頃、九州では、「多々良浜の戦い」で勝利を収めた足利尊氏が、京都を目指して東上をする時、尊氏の命令で、博多に留まっていた一色範氏が、北朝、室町幕府の勢力拡大に努めていた。

この範氏の配下には、少弐氏、大友氏などが従い、南朝勢力である肥後国の菊池氏との戦いを続けている。

九州南部の日向国では、尊氏によって畠山直顕が派遣されていて、薩摩国の島津氏と手を組み、南朝の菊池氏と対立をしている。

正平3年・貞和4年(1348)11月、後醍醐天皇の子、征西将軍宮(懐良親王)が、肥後国菊池氏の元に入り、勢力の拡大を目指していた。

その争いの中に、足利直冬が、参加をすることになる。

 

足利直冬は、九州で、どのようにして、勢力拡大を目指したのか。

足利尊氏から討伐命令を受けている直冬は、当然、北朝勢力と手を結ぶことは出来ない。

かといって、初陣で、南朝勢力と戦った直冬は、征西将軍宮、菊池氏とも手を結ぶことは出来ない。

直冬は、河尻氏の本拠地である肥後国河尻津に上陸。直冬が目指したのは、南朝、北朝、どちら側とも距離を取っている、いわば、浮動的立場の国人たちの獲得です。

どうも、この時、直冬は「尊氏、直義の命令を受けて、九州に下って来た」と称していたようですね。

直冬が、頼ることが出来るのは、やはり、足利氏の血統の他に無い。

直冬の九州下向を知った足利尊氏、高師直は、「直冬を、上洛させろ」と九州の国人たちに命令しますが、それが無理だと分かると「直冬を討伐しろ」という命令を出します。

 

当時、地方の国人たちを配下に収めるには、「軍勢催促状」を出し、自分の元に、軍勢を率いて参加をすることを要請。

そして、「所領の安堵」を保証し、合戦で、手柄があれば、「恩賞」を与えることになる。

合戦で、どのような活躍をしたのか。国人たちは、その具体的な内容を記した「軍忠状」を、合戦の責任者に提出。その「軍忠状」に、大将が証判を与えることにより、手柄が認められ、恩賞が与えられることになります。

直冬も、当然、このようにして勢力の拡大を図ることになる。

 

九州の国人、武士たちは、北朝側に味方をするのか、南朝側に味方をするのか、新たに出現をした足利直冬に味方をするのか。

どの勢力に参加をするのが、自分にとって利益になるのか。

大いに、悩んだことでしょう。

 

貞和6年(1350)、肥後国で、足場を固めた直冬は、九州全土への勢力の拡大を目指します。

肥前国、豊後国、大隅国、筑前国などの国人に、活発に書状を送り、軍勢を集める。

北朝勢力、南朝勢力の間に、足利直冬が、割って入ることになる。

2月、直冬は、一色範氏との対決を目指して、軍事行動を開始。太宰府を目指す。

4月、直冬軍を抑えるため、少弐頼尚が、太宰府を出発。

直冬軍は、各地で、北朝方と合戦を続ける。

この頃、「直冬軍が、京都に攻め上って来る」という噂があり、足利尊氏、高師直は、九州に向けて出陣をすることを決意。高師泰が、先鋒として出陣をするが、石見国で直義派の桃井義郷の抵抗を受ける。

 

貞和6年(1350)9月28日、少弐頼尚が、北朝方から、直冬方に、寝返る。

この少弐頼尚の直冬方への寝返りは、大きな衝撃を持って、九州、京都で広まる。

この頃、足利直義が、京都を脱出。

10日28日、足利尊氏、高師直、京都を出陣し、九州に向かう。

11月5日、尊氏、兵庫に到着。

11月19日、尊氏、備前国福岡に到着。

11月23日、足利直義が、尊氏、高師直と戦うため、南朝に降伏。

これを受けて、尊氏は、九州下向を中止。京都に戻ることにする。

しかし、足利直義の軍勢が、先に、京都を制圧。京都に迫る尊氏軍を、次々と破り、貞和7年(1351)2月17日、足利尊氏、直義に降伏。

2月26日、高師直、高師泰が、直義派の上杉能憲らによって、殺害される。

 

京都での、足利直義の勝利を受けて、九州では、足利直冬が、一色範氏を圧倒。日向国の畠山直顕は、直義派なので、直冬を、当初から支持していたのではないかということ。しかし、何時、直顕が、直冬と手を組んだのかは、確かではないよう。

京都で、足利直義が、権力を取り戻したことで、足利直冬は、観応2年(1351)3月3日、「鎮西探題」に任命されることになる。

足利直冬は、将来の上洛を目指して、中国地方への勢力の扶植も、活発に行っている。

この直冬の「鎮西探題」就任は、南朝方、征西将軍宮との関係悪化を引き起こす。

足利直冬は、一色範氏との対立上、征西将軍宮とは、協調関係にあったのですが、今後、征西将軍宮は、一色範氏と手を組み、直冬と対立をすることに。

 

鎮西探題として太宰府に入った足利直冬は、少弐頼尚、畠山直顕らを使い、九州の支配に努める。少弐頼尚は、太宰府で、直冬の側で活動。畠山直顕は、日向国で、独立した権力を持っていたようです。

直冬の側近としては、仁科盛宗らの名前が確認できる。

直冬の侍大将として活躍をした者は、今川直貞、新田貞広、尾張義冬など。

彼らは、直冬の九州上陸から、各地に派遣されて、活躍。

しかし、直冬の鎮西探題としての統治機構は、あまり、よく分かっていないということ。

 

観応2年(1351)7月、京都で、足利直義、足利義詮の対立が激化。

8月1日、直義は、京都を脱出。

8月18日、直義討伐のため、足利尊氏、京都を出陣。

10日24日、足利尊氏、直義と戦うため、南朝に降伏。

 

この間、九州で、足利直冬と、一色範氏、征西将軍宮との戦いも激化。

8月8日、直冬軍と、南朝方との、最初の合戦。

征西将軍宮、筑後国瀬高に侵出。

畠山直顕もまた、薩摩国の島津氏や、南朝勢力と、激しく、合戦。

足利直冬は、中国地方、四国地方への勢力の拡大も目指していた。特に、石見国への工作が活発だったということ。

 

観応2年(1351)11月、足利尊氏、関東に下向。

観応3年(1352)1月2日、足利直義、尊氏に降伏。

2月26日、足利直義、鎌倉で急死。

閏2月、直冬は、養父、直義の訃報に接したと考えられる。

 

一色範氏、南朝の勢力が、太宰府に迫る。

観応3年(1352)11月12日、直冬軍、一色範氏と、筑前国の椿・忠隈で合戦。

11月24日から、翌観応4年(1353)2月1日まで、太宰府での攻防戦が繰り広げられる。

この攻防戦の最中、足利直冬は、太宰府を脱出し、長門国の豊田城に入る。

太宰府に残った少弐頼尚は、南朝方の菊池武光に援軍を頼む。

少弐、菊池の連合軍は、一色範氏を破り、九州での征西将軍宮、南朝の勢力が、大きく拡大することになる。

 

長門国豊田城の豊田氏は、周防国の大内氏と共に、南朝方だった。

直冬の豊田城への入城は、南朝への降伏が、条件だったと思われる。

直冬の南朝への帰順が認められたのは、正平8年(1353)5月頃だろうということ。

この頃、中国地方での反尊氏、反義詮勢力である南朝勢力は、山名時氏、大内弘世、桃井直常ら。

彼らは、足利直冬を、総大将に担ぎ上げることに。

 

文和3年・正平8年(1353)2月、足利尊氏、西国への出陣を決意するも、実行されず。

正平9年(1354)5月21日、直冬、石見国から、上洛に向けて、出発。

しかし、各地で、北朝勢力の抵抗に遭い、約4ヶ月もの間、石見国に足止めされることに。

10月18日、足利義詮、軍勢と共に、京都を出陣し、播磨国へ。

中国道から足利直冬軍、山陰道から山名時氏軍が、京都に迫る。

12月24日、足利尊氏、天皇と共に、京都を脱出。

正平10年(1355)1月16日、南朝方の先鋒が、京都に入る。

1月20日、足利尊氏、近江国から、京都へ進軍を開始。

1月22日、足利直冬、山名時氏、京都に入る。

1月24日、足利義詮、播磨国から、摂津国宿河原に陣を移す。

1月25日、足利直冬、東寺実相院に入る。

1月29日、足利尊氏、比叡山に入る。

2月6日、摂津国神南で、足利義詮軍と、山名時氏軍が合戦。激戦の末、足利義詮軍が勝利。

2月8日、足利尊氏軍、足利直冬軍が、京都で合戦。勝敗は、つかず。

2月13日、15日にも、合戦が行われるが、勝敗は、つかず。

2月28日、足利義詮軍が、京都、西山法華山寺に入る。

3月8日、尊氏方の軍勢が、直冬方の戒光寺の桃井直常を攻撃、敗走させる。

3月12日、尊氏軍が、直冬の居る東寺に攻め込む。直冬は、東寺を脱出し、八幡に逃れる。

 

この京都での敗戦、脱出以降、足利直冬が、組織的な戦闘を行った形跡はない。

つまり、足利直冬は、完全に、その力を失ったということ。

京都を脱出した足利直冬は、流浪の身となり、中国地方を転々としたと考えられる。

しかし、完全に、活動を停止した訳ではなく、勢力の扶植に努めながら、安芸国に落ち着き、また、石見国にも、活動を広げていたよう。

もっとも、その活動は、これまでと比べると、細々としたものだったよう。

 

正平16年(1361)頃、直冬は、安芸国から石見国に、拠点を移したよう。

正平17年(1362)6月頃、各地で南朝勢力が蜂起。

足利直冬も、山名時氏が、伯耆国から備前国、備中国へ侵出するのに呼応して、石見国から備後国府中に、軍勢を進めている。

正平18年(1363)、周防国の大内弘世が、北朝に帰順。

そして、正平21年(1366)12月8日の書状を最後に、足利直冬の書状は無くなることに。

 

延文3年(1858)4月30日、足利尊氏、死去。54歳。

貞治6年(1367)12月7日、足利義詮、死去。38歳。

 

室町幕府第三代将軍となった足利義満は、足利直冬と和解し、直冬が、石見国に住むことを認めたと言われていますが、その後の直冬が、どのような生活をしていたのか。分かるものは、何も無い。

一説には、石見国の吉川氏が、直冬を保護していたのではないかということ。

 

足利直冬が、何時、どこで、亡くなったのかも、分からないということ。

様々な説があり、その中では、応永7年(1400)、74歳で亡くなったというのが、一番、妥当性があるということのよう。

 

足利直冬の妻についても、よく分からないよう。

子供については、嫡男である冬氏と、末子である乾珍と、他、三人の子供が居たことが分かっているようです。

 

足利冬氏は、備中国井原荘付近に居住し、臨済宗善福寺を開基したことから「善福寺殿」と呼ばれたそうです。生没年は、明らかでは無いそう。

また、末子の宝山乾珍は、京都の相国寺第44世持寺となり、その後、天竜寺第94世にもなっているそう。嘉吉元年(1441)12月25日、48歳で、亡くなる。

 

さて、この嘉吉元年(1441)には、あの「嘉吉の乱」が起こっている。

赤松満祐が、将軍、足利義教を殺害したという事件。

室町幕府に反乱を起した赤松満祐は、足利直冬の孫、義尊、義将を、担ぎ上げることになります。

この二人の父親は、冬氏である可能性が高いということ。

赤松満祐が滅びた後、当然、二人も殺害されることに。

 

個人的に、この「足利直冬」に関心を持ったのは、やはり、「足利尊氏の子でありながら、実父である尊氏に嫌われ、直義の養子として、生涯、実父の尊氏と戦い続けた」ということ。

本当に、直冬は、足利尊氏の子供だったのか。

なぜ、尊氏、そして、直義は、直冬を、「尊氏の子」と認めたのか。

その点にも、関心がある。

 

更に、なぜ、「尊氏の子」「直義の養子」という以外に、何のバックボーンも持たない足利直冬が、九州で軍勢を集め、ついには、京都にまで攻め込むことが出来たのか。

その点にも、興味がある。

九州に上陸をした時の直冬は、北朝方ではなく、南朝方でもない、まさに「微妙な」立場だった。

九州の国人たちは、なぜ、この「微妙な」、足利直冬の元に、集まり、手を貸すことになったのか。

それもまた、不思議なところ。

 

やはり、直冬は「直義派」の旗頭として、各地で期待を持たれたということなのでしょうかね。

 

そして、足利直義が、「観応の擾乱」の結果、足利尊氏に敗れて、鎌倉で死去。

更に、南朝方として京都に入った足利直冬は、実父、足利尊氏との直接対決に敗れたことで、完全に、その求心力を失ったということになるのでしょう。

 

前半生を、まさに、戦乱の中に生きた足利直冬は、長い余生を、静かに暮らすことになる。

一体、何を思って、生活をしていたのでしょうね。