山田地区から上山坂地区に抜ける中間峠という場所に、このような石碑があります。

 

 

「萩野独園禅師生誕之地」と書かれています。

この「萩野独園」とは、何者なのか。

以下、ウィキペディアから。

 

萩野独園は、文政2年(1819)に生まれ、明治28年(1895)に亡くなった、臨済宗の僧侶だそうです。

 

13歳の時に、地元の掌善寺で出家。

18歳の時に、豊後国の帆足万里の元で、儒学を学ぶ。

24歳の時に、京都の相国寺で、大拙承演に師事。

明治3年(1870)、相国寺第126代住持となる。

 

明治5年(1872)、教部省が設置されると、教導職として、東京に招かれる。

増上寺の大教院が設置されると、大教正に任命され、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総管長を兼務。

大教宣布に、強く反発し、「信教の自由」を掲げて、神官や国学者たちと、激しく、対立。廃仏毀釈に、強く、抵抗することに。

 

明治8年(1675)、大教院が廃止され、相国寺に戻る。

その後、「廃仏毀釈」によって荒廃した、仏教寺院の復興に、力を尽くす。

 

このような、高僧が居たとは、知りませんでした。

まだまだ、知らないことが、たくさんある。

 

さて、今日は、上山坂の公園の駐車場に車を置き、この石碑まで、歩いてみました。

 

途中で見つけたのは、これ。

 

石灯籠と、お地蔵さん。

 

中には、ホラ貝のようなものが、置かれていますね。

お花も、供えられている。

右側は、お地蔵さんではなく、馬頭観音でしょうかね。

 

次に、見つけたのは、化粧地蔵です。

ここにも、あったんですね。

 

さて、荻野独園の石碑のある場所の近くから、高畠城跡の山を見る。

手前に、石灯籠がありますね。

ここに、石灯籠があるということは、この細い道が、昔のメイン通りだったのでしょう。

 

地図を見ると、この山の麓に、荒神社があり、そこから、山頂の高畠城跡に向かう山道があるようですが、その荒神社を見つけることが出来ませんでした。

ネットの情報を見ると、荒神社に行くには、住宅地の背後にある、細い道を歩く必要があるということ。

そして、その荒神社から、山道を登ると、山頂近くに、金刀比羅宮があるそうで、そこが、高畠城の出丸になるのではないかということのよう。

 

周辺の田園風景。

 

 

 

 

水の流れが、良いです。

 

こちら、上山坂の公園の近くから見た、高畠城跡のある山です。

山頂近くに、建物が見えますが、恐らく、それが、金刀比羅宮ということになるのでしょう。

 

高畠氏は、元々、四国の細川氏の被官で、備前国児島に渡り、その東端辺りを支配することになる。

この高畠城も、その拠点の一つ。

 

とにかく、滅茶苦茶に、暑い。

日中に、外で散歩をする季節ではないですね。