来年の大河ドラマは「蔦屋重三郎」が主人公のようですね。

この、蔦屋重三郎は、江戸の出版プロデューサーで、今に名前の残る、多くの浮世絵師、作家を、世に送り出している。

その中でも、個人的に、大きな関心を持っているのは、やはり「東洲斎写楽」です。

 

この「東洲斎写楽」は、一体、誰なのか。

今から、30年ほど前、色々と、本が出版されたり、テレビで、検証番組が放送されたりと、一時、ブーム的になっていて、僕も、色々と、勉強をしてみました。

 

 

 

 

写楽と同時代に活躍をしていた浮世絵師で、「誰々の絵の、この部分が、写楽の絵の、この部分に似ている」と、色々と、他の浮世絵師が、写楽の候補として挙がっていましいたね。

また、浮世絵師ではない人物の名前も、色々と、挙がっていたよう。

しかし、この「写楽の正体は、誰なのか」という論争には、今では、ほぼ、決着が付いているようです。

 

元々、江戸時代、天保15年(1844)に書かれた「増補浮世絵類考」という本の中に、「写楽斎」の項に「俗称、斉藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州の能役者なり」と書かれているそう。

つまり、「東洲斎写楽」は、阿波藩お抱えの能役者である「斉藤十郎兵衛」という人物で、八町堀に住んでいたと、ちゃんと、書かれたものがあったということ。

しかし、この「斉藤十郎兵衛」という人物の実在が確認できなかったことで、この説は、あまり、顧みられることがなかったよう。

だから、写楽の正体を探る推理合戦が、横行していたということ。

 

しかし、その後の研究で、この「斉藤十郎兵衛」が、阿波藩お抱えの能役者として、八丁堀に、当時、住んでいたということが確実となり、もはや、この説を疑う理由がないということになっている。

もっとも、この「斉藤十郎兵衛」が、確実に「写楽」だったということを裏付ける史料は発見されていないようで、まだ、疑問が残るところでもあるということのよう。

 

この「東洲斎写楽」が、大河ドラマの中で、どう描かれることになるのか。

興味のあるところです。

 

さて、「東洲斎写楽」という絵師について。

 

活動期間は、寛政6年(1794)5月から、寛政7年(1795)1月までの、約10ヶ月と、とても、短い。

しかも、その短い間に、145点ほどという、大量の絵を描いている。

そして、この短い期間の間に、写楽は、その画風を、大きく4回、変えています。

個人的には、そこが、この「東洲斎写楽」という絵師について、最も、関心を持つところ。

 

まずは、5月の第一期。

多くの人が「写楽」と聞いて思い出す絵は、この第一期のもの。

 

三代目大谷鬼次の「奴江戸兵衛」。

 

市川鰕蔵の「竹村定之進」。

 

実は、この「大首絵」は、二枚で、一つのセットになっています。

例えば、三代目坂田半五郎の「藤川水右衛門」と、二代目板東三津五郎の「石井源蔵」は、「花菖蒲文禄曾我」という演目で、「討つ人」「討たれる人」の関係です。

 

藤川水右衛門。

 

石井源蔵。

 

また、二人を一緒に描いたものもあります。

 

二代目沢村淀五郎の「川連法眼」と、初代板東善次の「鬼佐渡坊」。

 

この第一期の絵は、役者の上半身をアップにした「大首絵」と呼ばれるもの。

しかも、「雲母摺」(きらずり)と呼ばれる、豪華な装丁で、大判で、28枚もの絵が発売されている。

 

圧倒的な迫力ですよね。

僕は、子供の頃、まだ、「浮世絵」とか「東洲斎写楽」という名前を知る以前から、この「写楽」の大首絵には、何か、怖い印象を持っていました。

それだけ、絵に「力」があるということでしょう。

 

蔦屋重三郎は、なぜ、無名の新人「東洲斎写楽」に、これほど力を注いだのか。

これもまた、大きな疑問の一つ。

 

そして、7月からの第二期。

こちらもまた「雲母摺」で、大判ですが、7枚の二人立ちの全身像と、1枚の一人立ちの図。

更に、細版で、単色背景による一人立ちの絵が30枚ということ。

 

四代目松本幸四郎の「新口村孫左衛門」と、初代中山富三郎の「新町のけいせい梅川」。

 

三代目板東彦三郎の「帯屋長右衛門」と、四代目岩井半四郎の「しなのやお半」。

 

小さい絵では、よく分かりませんが、大きな絵で見ると、全身像ですが、顔の表情など、まだ、写楽らしさを保っている。

 

そして、11月からの第三期。

こちらは、顔見世狂言に取材をした絵58枚。役者追善絵2枚。相撲絵が2種4図。合計64枚。

雲母は仕様せず、背景の描写があるということ。

この第三期から、芸術的性質が、著しく、落ちることになる。

 

「大童山文五郎の土俵入り」です。

この「大童山文五郎」とは、当時、大人気だった、今で言うところの「ちびっこ力士」だったそうで、その土俵入りを眺める力士たちは、実際、その時、現場に居た力士たちだそうで、写楽もまた、その現場に居たのだろうと、昔、テレビ番組で話されていたのを記憶しています。

 

また、この第三期の頃から、当時、人気だった「勝川派」などの浮世絵の手法を真似たりもしているということ。

つまり、「写楽らしさ」は、無くなって行くことになる。

 

第四期は、翌年1月から。

桐座の狂言を描いた細版10枚。大判の相撲絵2枚。武者絵2枚。合計14枚。

 

こちらは、段四期の役者絵になりますが、もはや、「写楽らしさ」は、無くなっていますよね。

舞台の背景も、詳細に描き込まれている。

 

この「東洲斎写楽」の大きな疑問は、なぜ、一年弱という短期間で消えてしまったのか。

そして、なぜ、この短期間に、急激に「画風」を変化させたのか。

つまり、なぜ、その絵の「芸術性」が、著しく、無くなってしまったのか。

 

簡単に言えば、写楽の絵には「人気が無く、売れなかったから」と言うことになる。

 

当時、浮世絵というのは、今で言えば、雑誌のグラビアのようなもので、芸術品というよりは、大量生産、大量消費をされるものだった。

つまり、「人気」が無ければ、浮世絵師として、生き残ることは出来ない。

では、なぜ、写楽の絵に人気が出なかったのか。

それは、同じ蔦屋重三郎の元で、「狂歌」を出版し、大人気だった大田南畝が「あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆえ」と、写楽が、世の中に受け入れられなかった理由を書いています。

つまり、写楽は、役者の顔を「あまりにも、リアルに描きすぎた」ために、世間に受け入れられなかったということ。

今で言えば、人気芸能人のグラビア写真などは、ばっちりとメイクをし、ライトアップなども計算され、補正なども加えて、如何に、その人を、綺麗に、格好良く見せるかということで勝負をしている。

当時の浮世絵も同じで、役者絵などは、いかに、その役者を「格好良く」「美しく」描くかということが勝負だったのですが、写楽は、そうではなく「リアル」に、その役者の顔を描いてしまった。

今で言えば、人気芸能人を、何のメイクも、テクニックもなく、「スッピン」の写真を雑誌のグラビアにしてしまったということになるのでしょう。

これでは、人気が出る訳がない。

 

そして、写楽の絵は、描かれる役者本人にとっても、不評だったよう。

これでは、描き続けることは出来ないですよね。

 

短期間の間に、画風を大きく変え、その芸術性を、著しく落としてしまったのは、恐らく、蔦屋重三郎を始め、周囲の意向を受けて「売る」ためだったのでしょう。

しかし、それは、上手く行かず、「東洲斎写楽」は、短期間で、浮世絵界から消えてしまうことになる。

 

実は、この「東洲斎写楽」という絵師が、有名になるのは、明治43年に、ドイツの美術研究家の「ユリウス・クルト」という人物が、その著書「SHARAKU」で、その芸術性を、非常に高く、評価をしたため。

これを受けて、日本でも、大正の頃から、その絵の芸術性が、高く評価をされるようになったということ。

 

さて、この写楽が活躍をした当時、世間で人気のあった役者絵は、勝川春英や歌川豊国という浮世絵師の絵。

 

こちら、勝川春英の役者絵。

 

 

上、二枚、初代歌川豊国の役者絵。

 

どちらも、何だか、顔は、のっぺりとしていて、いかにも「綺麗に」描いた印象です。

芸術作品としては、明らかに、写楽の方が、上ですよね。

しかし、売れなければ、意味がない。

 

それにしても、蔦屋重三郎が、どのようにして「斉藤十郎兵衛」という、全く、無名の素人に目をつけ、大々的に、デビューさせたのか。

その辺りは、謎ということになるのでしょうが、大河ドラマの中では、一体、どのような物語になるのか。

今から、関心のあるところです。